カテゴリー「2011年6月のジャン日記」の記事

2011年7月 2日 (土)

6月30日(木) 『一日一生 ~2011年6月のジャン日記のINDEX~』

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7年半かけて自転車で世界一周をし、今は人気旅行作家として活躍している「石田ゆうすけ」さんには、吟遊詩人のイベントでも何回と講演(Slide Talk Show!!)をしていただいている。

ゆうすけさんの本にサインをお願いすると、いつも「一日一生」と書かれる。
素敵な言葉だなぁ、とは思いつつも、しっかり理解はできていなかった。

この一ヶ月間、毎日、気合いの入った日記を書き続けることで得たものは、この「一日一生」の言葉のメッセージが、なんとなく、、、ただなんとくではあるが、わかりかけてきた気がしたことだ。

朝に生まれ、昼に人生を過ごし、夜に死ぬ。
といった、人の一生を一日で表したものであるかもしれない。

または、一日の積み重ねが一生になる。とか、
一日を自分の一生の最後の日だと思い精一杯に生きる。
といった、深い意味をもった言葉であるかもしれない。

しかし、ぼくが思ったことは、単純に、
一日一日を大事に生きていきたい。
というだけのことだった。
これからも一日一日を意識し、
日々を大事に過ごしていきたく思っている。

ぜいたくを言えば、人生は物語のような連続の日々でありたい。
なにもなかったように思われる日常でも、いろいろなことがあり、いろいろと考えることができる。

たとえば、たかが皿洗いにしても、玉ねぎを刻むことにしても、ダンボールをたたむことにしてもそう。
追求すればなにもかも奥が深く、とらえかたしだいでパズルにもゲームにもなり、生活に応用が効き、自分への鍛練にもなる。

明日、ぼくは数ヶ月ぶりにラーメン屋にラーメンを食べに行く。
たったこれだけのことでも、ある意味イベントになり、物語をつくることができる。
考え方しだいで、どんどん世界は広がっていくんじゃないだろうか。

この一ヶ月の中で、とくに印象深かかったことを言えば、6月7日(火)に吹田の「みんぱく」へ「梅棹忠雄」さんの展示会に行ったことかもしれない。

人には平等に時間が与えられているように思えるが、
時間の使い方、日々の考え方によって、
大きくも小さくも、一生に大差が開くことを知った。

常に考え、なにかを吸収しようと意識することで拡がっていくことがある。
人生って、生き方しだいですごく長くなるもんだな。
一日一日を大事に過ごしていきたい、と思った。

つきなみな言葉を繰り返すけれど、
一日一日を大事にしていくことで、
人生が何倍にも膨らむことを教えてもらった。

今度ゆうすけさんに会ったら、「一日一生」の意味を聞いてみよう。

あとがき:

2011年6月の日記、毎日立て続けに更新していたので、見過ごされてるページもあるかとは思います。ぼくは、この6月の日記全体を通してひとつの作品としてとらえていることもあって、ここにINDEXをつくりました。
もし、ご興味あるタイトルなんて目につきましたら、お時間あるときにでもゆっくりとご覧になっていただけたらこれ幸いです。

ぼくの書く文章をご一読してくれているみなさんへ。
「書く」ことは、「読んでもらう」ことで喜びに満たされ、モチベーションもあがります。ただただ、感謝に尽きません。いつも本当にありがとうございます。
今後とも、文章とエッセイ、『JAN BOOK』を宜しくお願い致します。    JAN

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■2011年6月のジャン日記のINDEX

◎6月1日(水) 『SYUTTYO-CHAI !!』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-c872.html

◎6月2日(木) 『新しい旅の準備』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-20a9.html

◎6月3日(金) 『リアルな反応』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-524f.html

◎6月4日(土) 『SOUL TARMINAL』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-82fd.html

◎6月5日(日) 『未知なるスピンエネルギーの実験報告書 前編』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-e483.html

◎6月6日(月) 『抱吟 ~DATI-GIN~ 二周年記念日』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/dati-gin-e8ca.html

◎6月7日(火) 『ウメサオタダオ展@みんぱく ~自転車でゆく、18時間の小さな旅。~』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-b8f4.html

◎6月8日(水) 『タテタカコさんに寄せる手紙 ~文章という名の自分の唄~』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-3656.html

◎6月9日(木) 『あの娘がうちにやって来て4周年の日 ~猫の音子が仔猫のときの心あたたまるエピソード~』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-11d8.html

◎6月10日(金) 『たまにミュージシャンきどりをするジャンのたわごと。』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-938a.html

◎6月11日(土) 『Tokoya ha Dokoya? Uti no Furobaya!』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/tokoya-ha-dokoy.html

◎6月12日(日) 『晴男(女)、雨女(男)のパワーって、実際どんなものなんでしょうか?』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-5b2a.html

◎6月13日(月) 『THE FLY』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/the-fly-411d.html

◎6月14日(火) 『非現実的な夢想家』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-a9bc.html

◎6月15(水) 『青年の船に乗って ~1996年、冬の記録~』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-44f0.html

◎6月16日(木) 『ひとりぽっちのストリートブルース ~時給300円のプロミュージシャン~』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-c139.html

◎6月17日(金) 『原発と足あとを巡る論争』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-1dec.html

◎6月18日(土) 『「スタンドバイミー」は外国の「上を向いて歩こう」ではなかろうかと思ったカオスなBARでのできごと』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-7ea4.html

◎6月19日(日) 『つぶやき ~150文字の新ジャンル~』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-d35b.html

◎6月20日(月) 『七転び八起き後の志し』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-5e20.html

◎6月21日(火) 『神さまの遊び心』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-549b.html

◎6月22日(水) 『工場勤務の思い出話 ~factory's memory~』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/factorys-memory.html

◎6月23日(木) 『路上(ストリート)からひろがる出逢い① ~酒井ヒロキ~』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-2fe7.html

◎6月24日(金) 『井上卓の世界』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-4523.html

◎6月25日(土) 『今夜のストリートリスト♪』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-e035.html

◎6月26日(日) 『弁天埠頭公園にて』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-ef0d.html

◎6月27日(月) 『 2011.6.27 米ライブレポート@本町 Mother Popcorn 』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/2011627-mother-.html

◎6月28日(火) 『世界中の人間で一斉にジャンプ!』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-534a.html

◎6月29日(火) 『パンチからの風便り ~ひとつにつながるこの空の下で~』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-c1a8.html

◎6月30日(金) 『一日一生 ~2011年6月のジャン日記のINDEX~』http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-212f.html

 

 

 

 

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2011年7月 1日 (金)

6月29日(水) 『パンチからの風便り ~ひとつにつながるこの空の下で~』

6月1日に一日一日記をはじめたちょうどその日から、パンチも旅先の沖縄から、ほぼ毎日のよう携帯メールでショートエッセイを送ってきてくれた。


ぼくのエッセイにはパンチがよく登場する。彼のことを知らない人へ簡単に紹介すると、、、

沖縄、バリ、ハワイ、ジャマイカ・・・、彼がフラフラと行き来する常夏の町や村は、いい風がふき、いい波がたち、いい音が流れ、いつでもゆるい空気に満たされている。
ボブマーレーをこよなく愛す音楽家でもあり、シュチュエーションにあった演奏を得意とする歌声は「彼の旅」そのものだ。


昨年の世界旅行中には、100日間、うちの留守番と音子の世話を買って出てくれ、『抱吟 ~DATI-GIN~』の名付け親でもある。

パンチがエッセイを書くのは今にはじまったわけではないが、こうしておなじ6月に(彼がこんなにも連日にエッセイを書くのははじめてのこと)、日々のできごとを書きあうなにかがクロスしたような感覚。大阪と沖縄のひとつにつながる空の下で、互いの物語を文章でやりとりする感覚はとても楽しいものがあった。

今回の6月より書きはじめたぼくの一日一日記にかけて、沖縄から届いたパンチのショートエッセイをここにまとめたく思いました(承諾は得ています)。

親友からの風便り、個人でまとめてみたかったことと、もしよければみんなにも読んでもらいたい想いを込めて。。。        ジャン


※ 以下、パンチからの携帯メールの原文をまとめたものです。









『パンチからの風便り ~ひとつにつながるこの空の下で~』



■6.1(wed) 『Run!Run!』

旅の始まりはいつも走らされるというお決まりがある。今回こそはとAM6:20発那覇行きの羽田空港へと3時起きで出発した。ところがどっこい、駅周辺まで来て忘れ物をした事に気ずく!?この始発を逃すと空港で走る。
またかよ!ギターとバックを車の後ろに隠してとにかく家までダッシュ。
おかげでさま、空港での余裕のコーヒーは一段とうまかった。p



■6.1(wed) 『旅路。』

浜松町から湾岸をもやのかかった朝日に照らされながら滑るモノレール。
けたましい音を轟かし滑走路を爆走するジェットエンジン。紺碧の天空は無限に広がる宇宙。地球の輪郭を描くようにどこまでも浮かぶ雲海。雲の切れ間の下で航海するオモチャのような貨物船。そんな時ふと、パイロットになる事が夢だった幼い頃を思い出した。



■6.1.(wed) 『空港食堂』

曇り空の空港に降り立ち、バックとギターを掴み取り、到着のGATEを出ると急に腹が減ってきた。観光客には見つかりづらい奥まった場所に空港食堂があるのを知っていた。そこは以前、米軍基地勤務が決まるまでの繋ぎで働いていた那覇空港のいわば社員兼用の食堂であった。荷物を降ろしては積み込み降ろしては積み汗くさい水色のツナギのまま昼飯によく通った。
沖縄そば。思い出というスパイスがガツンとソバにからんだ朝飯だった。



■6.1(wed) 『宿にて。』

米軍基地のお膝下であるコザ。一泊1500円の宿を経営するヒロシ君がいつものように迎えてくれた。ビールで乾杯しながら久々の世間話に花が咲く。すると、長期滞在の客が仕事から帰ってきては挨拶をかわす。旅は出会いの宝庫だなっとつくづく感じさせられる。可愛い子には旅させろ、か。
そう、先日の台風二号。沖縄を直撃したらしく、だいぶ事態は深刻。名産のゴーヤが全滅らしく、昼に入った食堂もゴーヤチャンプルーの札を外していた。



■6.2(tur) 『翌朝。』

昨日の疲れもとれないまま、マックでCOFFEEをゲットして海岸に向かった。コザから歩くと1時間もかかる道のり。レンタカーは実に助かる。
ダイビングでポピュラーな海岸は静かな雨。屋根の付いたベンチは波の割れる音に腰掛け、柔らかな弦の波紋は朝の肉声に溶け合う。
ああ、きっとBARでちやほやされながら歌うよりも、黄昏ながら自由に奏でるシンガーのほうが自分に合っているのだろう。 A&Wにて。



■6.2(tur) 『レンタカーとギター。』

いつも沖縄を旅する時はバスと決めていた。バス停で待つ時間、車内で乗り合う地元の人達、車窓に流れる琉球の原風景。
しかし、今回は石垣島行きが控えていた。その事は追い追いレポートするとして。なので沖縄本島は時間をお金で買うレンタカーの旅に踏み切った。一日\2200ね。
梅雨の沖縄、今にも泣きだしそうな空。急いで平和祈念公園へ車を走らせる。この日のために「なだそうそう」「上を向いて歩こう」を仕込んできた。大海原をバックに鎮座する摩文仁の丘は台風二号のおかげで少々荒れていた。折れた木々の整備で骨も折れそうだ。いたって静かなベンチに腰掛けギターを鳴らし唄う。あたかも誰かに導かれてきたかのように。



■6.3(fri) 『琉球の部落 ~今泊~』

台風二号の傷跡でテンションは上がらず2日目を迎えた。どんよりとした重い曇り空。昼飯にソバを食いがてら北部へと出かける。近所のレコード屋さんで買った民謡CDに揺られながら2時間ぐらい。ちゅら海水族館の坂を下った海岸で車を止める。そこから一望できる伊江島の城山~タッチューにそっと手を合わせ、ギターを手に取る。雨は上がり雲の隙き間から陽がさしてはゆったりとした時間だけが流れる。

帰りの国道沿いに世界遺産の今帰仁城跡の入り口があった。丘を登る坂道をくねくね走り拝観チケット売り場まで辿り着いたもののすでに閉時にせまっていた。
やむを得ず来た道をなぞり入り口の国道に戻る。すると、国道を挟んだ向かいに南国木々の奥へと続く小道が見えた。あれ?車を国道に戻さず小道へと直進させた。湿った薄暗い緑のアーチをくぐるとそこには琉球の面影を残す家々が隠れていたのだ。さっそく車を止め部落をぶらつく。苔の生えた屋根瓦やブロック塀。
伝統たる琉球家屋。どこからともなく聞こえてくる三線の調べと小鳥のさえずり。琉球の迷路は胸の鼓動を上げ始めた。何もかもに気を取られていると視界が開け海岸に出た。防波堤に腰掛けた地元のおっちゃんらとキャンディーをなぶチビちゃん。ぬるい海風は突然の来客との緊張感をもほぐしてくれた。



■6.4(sat) 『  』

沖縄にはゲストハウスと呼ばれる安宿が数多く点在する。一泊¥1500からの相場で二段ペットの相部屋タイプだ。ひと月¥30000の長期滞在も可能ですでに三人の若者が住み込み働きに来ていた。その中のひとり、グアム人のマーク。アメリカ国籍のアメリカ人だが、顔つきは東南アジアの愛嬌あるスマイルの持ち主。震災後千葉から日本人の奥さんと子供三人で避難して来たという。ただおかしなことに、別居中。色々あるのだろう。朝七時に起きてはアメリカン幼稚園の先生としてここから通勤している。
そして彼もまた楽器が好きでフルート奏者だった。それじゃと、取り出すギター。アメリカでもポピュラーな「上を向いて歩こう」の伴奏にボーカルとフルートがからみ合う。
外では米兵らのペイDAY~給料日でもあり、スラングの飛び交うさわがしさがゴザの夜を象徴していた。



■6.4(sat) 『いざ!石垣島へ。』

Am10:25発 JTA605便。1時間ほど早く到着した那覇空港の4Fから夏の太陽に照らされた滑走路を眺める。発着の旅客機やバリバリけたましく飛び去る戦闘機。そして非対象に広がるエメラルドからコバルトブルーへの海。空が澄み切っていれば慶良間の島々が見えるらしい。
さぁ!これから石垣島の旅が始まる。本来なら那覇港からフェリーで航海したいところだが、経営不振でここ最近ついに倒産。運賃も\5000と安く旅人には完璧の移動手段だった。しかし石垣から離島への小型フェリーは今もなお健在だ。
おや、いつの間にか空港の時計は出発20分前に針を進めている。また琉球に戻りますと窓の海に約束をして、搭乗ゲートへと歩き始めた。



■6.5(sun) 『アジア旅の原点。』

JTA605便は飛び石のように白い雲を突き抜け青い海の上に浮かぶ石垣空港へ降り立った。梅雨の明けか、この先しばらく晴れの天気が続くらしい。
それにしても暑い。とてもじゃないが、空港から街まで歩いては行けない。
あれからどれくらい経つのだろう?初めてこの島を訪れたのは。あの旅こそ東南アジアの門を叩いた若き青春の軌跡に違いない。戦後アメリカの統治下におかれ、建物から食料まで多くが洋風に変わった。潮の雨風に長年打たれたコンクリートの壁の劣化は異国情緒を演出した。おじいやおばあの会話は完全に外語。こんな世界が日本にあるのだと目を輝かせたものだった。



■6.6(mon) 『昔話。』

石垣空港を出発した乗合バスの車窓から歓迎する砂浜の潮風はハイビスカスの赤い花を揺らしていた。
確かに大型スパーやファーストフード、コンビニなど近代化の波は押し寄せていたものの中心街にある市場や食堂、呑み屋などはあの時そのままの空気が流れている。
お世話になったアヤパニ荘のおっちゃんも健在でほっとした。彼はもともと那覇出身で若い頃からサックスを吹き、本土復帰(1972年)前から米軍基地でプレイしていた。当時の戦地ベトナムへ翌朝向う米兵の話。もう還らない覚悟で行く彼らのリクエスト曲。そして、遺品。復帰前の沖縄には愛国心のドラマがアナログに存在していたという。



■6.6(mon) 『旅 ~石垣島の行方。』

6月23日、梅雨の明けた沖縄本島で平和祈念式が行われる。石垣ではその週末に合わせたイベントLIVEで今年はビギン、ブームといったメジャーグループが駆けつけるらしい。もちろん無料。石垣から出港する離島行きのフェリーも多々ある。どうやら、本島に戻れるのは先延ばしになりそうだ。



■6.7(tue) 『八重山毎日新聞。』

8時頃に目が覚め顔を洗いに行く。フロントの机には広告をはさんだ8ページの朝刊が配られてる。どれどれ。八重山の週刊天気はこの先晴れか。イチロー4戦ぶりに安打。あれ!タイガース最下位…
また第一面にもどり天気予報のとなり、カラー写真付きの「ふるさと漫歩」コラムに目が止まる。そこには、昭和20年4月15日旧日本軍の捕虜となり処刑された米3飛行士の慰霊碑が写っていた。こんなのんびりとした島にも戦争の爪跡は存在する。
今日の旅は宿のレンタルバイクにギターを乗せて観音堂まで走ろう。



■6.10(fri) 『のこされ島、竹富。』

33ノット約70キロで海上を跳ねながら爆走する八重山フェリーちゅらさん2号。わずか15分、あっという間に竹富島へ着岸。これでは船旅とは言えないが、時速70キロの海上はなかなかのスリルで気持ち良かった。
朝、目を覚ますと雲ひとつない青空。うわ、暑くなるぞ。こんな日こそ、透る白浜の海水浴だ。簡単に朝食を済ませ、海パンのままギターを抱えて石垣港へ向った。フェリーターミナルもやはり立派になっている。時代の流れには逆らえないのだなと旧ターミナルの面影に言い聞かせ、チケットカウンターにて往復1280円を購入。
デイコ並木の坂道が竹富港と集落とを結ぶ。三月の終り頃には真っ赤な花を咲かせ春を知らせると、集落入り口の畑で座りながら草取りをしていたオジーが言う。つづく



■6.12(sun) 『のこされ島~竹富。#2』

とにかく、竹富島そのものが極上のステージなのだ。

港の心地よい風に包まれたフェリーの去ったあとの静かな波止場。島名品の籠を編むおばちゃんらでにぎわう公園の木陰。
御嶽~おんと呼ばれる神社でお参り。
缶ビールが唯一?買える砂道の角にある売店の小さなベンチ。赤瓦の民家と胸ほどの石垣の集落を歩きながらハナウタ。
珊瑚の海へとつづく小道を抜けた西桟橋で黄昏る観光の女子らの隣。満ちた波の浜辺沿いを自然に生える南国植物の葉の下。その周りを散歩する色形とりどりのヤドカニら。

もうひとつ、小学と中学がひとつの校舎となる全生徒38名。下校時に偶然出会い、ビギンの「シマンチュの宝」を共演できればなぁと願う。



■6.13(mon) 『リリー。』

その夏の朝は公民館の向かいにある運動広場へギターを担ぎストレッチがてら宿を出た。

AM8:00、日差しは肌をジリジリ焦がす。軽くストレッチをしてから芝生を裸足で走る。すると、どこからともなく鳥のさえずりのような歌声が聴こえる。よく耳を澄ます。振り向くと自転車を停めた木陰に腰掛けながら唄う彼女がいた。

ギターをつかんだ男を見つけると唄うの止め、挨拶をしてきた。
「おはようございます、ギタリストですか?」
「はい、まぁ趣味ですが。」

彼女の名前はリリー。
石垣島に渡って3ヶ月、バイトしながら唄っている。体が弱く仕事が長続きしないリリーの歌声は幸せな小鳥のように可愛らしく、もろく輝いていた。

「なだそうそう、唄える?」
「キーが低いかも。」
アルペジオのギター伴奏に沖縄の思いを込めてやさしく唄うリリー。どこかでそっと耳を傾ける島の神様。朝の心地よい風がふたりを包み、唄と共に空へと舞い上がった。つづく



■6.14(tue) 『リリー。#2』

今朝も7時に起き、まだ誰もいない公民館前の広場へギターを片手に向った。すでにジリジリ光線を発する太陽。いつものベンチでストレッチをして裸足になり芝生を走り始める。すると、キーっとブレーキを鳴らした自転車に乗ってリリーがやって来た。僕は両手を広げ挨拶をする。彼女も気づいた。サンダルを履き水道で顔を洗う。朝のそよ風に吹かれた彼女の歌声がきこえる。



■6.18(sat) 『古典民謡は催眠術だった。』

毎年10月に八重山の古典民謡コンクールが行われる。そして、その予選が今週、来週末に公民館である事を新聞で知り掛けつけた。ちびっ子、新人、優秀、最優秀の4部門に分かれ今日はちびっ子と最優秀の前半だ。

体よりひとまわり大きい三線を抱えて少し外した民謡を歌う姿はとても愛くるしい。皆、簡単とされる民謡の1番だけを2曲づつ唄う。勝手な審査だが、将来の活躍を期待できそうな歌姫がひとりステージを飾って見えた気がする。

昼休みに入り、午後からの最優秀前半まで一時間ある。いったん宿に戻り、ジューシーかまぼこボールと泡盛でほろ酔いになる。ふと開演10分前の時計に気づきそそくさと宿を出た。

照明のおちたホールの中央に審査員10名がで~んと横一列に座る。スポットライトがあたるステージの座布団の上、ピシッと着物で飾った正座の最優秀部門。
風格、演奏ともに見事であった。しかし、ゆったりとした古典民謡を聴いているとほろ酔いのせいか、とてつもない睡魔がいきなり襲って来た。わずか二人目の時である。横になりたい、、、民謡が魂を吸い込むかのように意識がモウロウとして体の力が抜けていく。た、助けて。すると突然、会場が明るくなり小休憩のアナウンスが流れた。やっとの思いで外の日陰に横たわり、このメールを打つ。遠くで出場者の三線が聴こえる。明日また、最優秀部門の後半がある。今はここでアリンコにつつかれながら昼寝でもしよう。



■6.19(sun) 『クニオ & ザ シーブリーズ』

地元埼玉で行われた震災チャリティーイベントにハワイアンバンドで参加したと先日、父からのメールが届いた。
学生時代から演奏するハワイアンスチールギターは本場ハワイでも通用すると息子は思う。今、こうしてギターをかき鳴らし唄うことができるのも、父の存在なしには語れない。父の日、ありがとう。



■6.20(mon) 『今は、ただ。』

梅雨の開けたこの時期になると、新聞も行事も沖縄戦の色で濃くなる。オジーやオバーの体験談はとてもじゃないが信じられない事実を生々しく語る。これに、大日本国民の子孫としてどう受け止めたらいいのか正直、当惑する。
今は、ただ。慰霊碑に対して歌うことだけなんだ。



■6.22(wed) 『再会。』

出掛ける時は必ずギターを抱えて歩く。木蔭で休むおばちゃんを見つければスッとLIVEできるからね。

顔なじみの居酒屋の前でそこの板前さんと話していたら、ガラス越しに店内からこちらをニコニコ笑う女の子~5才ぐらい~がいた。最初は誰だか分からず暖簾に顔を隠してごまかしていたが、あ!あの時の子だとやっと気付いた。竹富島の木蔭で出会ったママとふたり旅してるあの子じゃないか。そうだよ、「僕らはみんな生きている」をいっしょに唄おうと誘っても、照れ笑いしてママの腕に寄り添いながら歌を聴いてくれたあの子だ。



■6.23(tur) 『慰霊の日。』

世界の硬貨を溶かし作られた平和の鐘。その鐘の音が鳴り響く公園で23日正午に黙祷が捧げられる。
黒いキャップと黒いスニーカーに着替え公園に着いた瞬間、正午のサイレンが青空に突き抜けた。すぐさもフクノキの木蔭に入りキャップを取り黙祷する。すると公園の近くの港で二隻の船の汽笛が少し遅れて哀悼の意を表する。
大きな鐘と小さな鐘は交互に静かな公園でこだまする。やがて最後の人が鐘をつき終わると、さっきまで僕の周りをおちつかず遊んでいた男の子ふたりが鐘の下でいじり始めた。鐘を揺すってみたり、つき棒にぶら下がったり。ははは、なんか緊張感がほぐれて楽になったよ。すると、ひとりが小さい体でなんとか鐘をついた。もうひとりは鐘の下で耳を両手でおさえる。ははは、ちょっと待ってろよ。フクノキの木蔭から重い腰を上げ、階段をのぼり平和の鐘が前後に揺れるぐらい思いっきり叩いた。男の子は目を丸くして振り返る。ははは、こんなモンだとニヤリ目を合わす。

沖縄本島から南西へ500キロ、ここ八重山にも戦争の傷跡は深く残っている。



■6.24(fri) 『石垣のフィナーレは台風だった。』

25日ビギン主催の「歌の日コンサート」で石垣を締めくくる予定だったのが。ここまでピンポイントで台風直撃とは、トホホ。イベントの中止は昨日発表。ちなみにリリーと出演する予定だった飛び入りLIVEも会場の都合で中止。う~ん、ひとまずコーヒー啜りながら今日の予定でも立てよう。
まだ雨は降らずとも、今にも荒れ狂いまっせ~と言わんばかりの空。風も完全にあやしい。イベントの会い次ぐ中止は残念だが、話のネタ的には台風でもよかとです。幸い宿の近くにアーケードの商店街もあるし、ギターポロリできるさぁ。
問題は26日のフライト。11:30石垣空港発~那覇空港が飛ぶのか否か?格安チケットのため変更がきかない。旅は道ずれ世は情け。乞うご期待!



■6.25(sat) 『沖縄のアイヌ青年。』

お宿日本各地から老いも若きも集まる。

石垣の宿、その毎日が出会いの連続だった。日本各地から老いも若きもここに辿り着き酒をかわし亜熱帯の夜を共にする。
その中でひとり、どこからどう見ても波照間や与那国といったさらに南方出身と思わす沖縄ジラー(顔つき)とキーマー(毛深い)の青年がいた。彼の無口でシャイな性格は青年とは思えないほどの落ち着きある風ぼうを醸し出す。そう、彼だけが宿の旅人の中で不思議な異色を放っていた。
我慢できずこちらから話しかけてみる。
「ども、俊介です。島人~しまんちゅだよね。どこの島?」
すると、照れては少しなまりながら応える。
「いや~違うんですよ。北海道です。」

かつて海遊民族であったアイヌ人と琉球人は同じ航路を渡り切り拓いてきた長い旅路の時空を、彼の黒い瞳の奥で凛々しく物語っているような気がした。



■6.26(sun) 『さらば、愛しき八重山。』

台風5号はあっけなく石垣の上空を過ぎ去り那覇行きのフライトは定刻通り飛びそうだ。宿を早めに出て空港行きのバスに乗る。車窓の流れる景色にふと問いかけてみる。自分はこの八重山で良き旅ができたのか?
バスは赤信号でいったん止まる。すると、窓のすぐ下にオバーが見えた。僕は麦わら帽子を取り車内から挨拶をする。オバ~の視点は定まらずも確かにニコッとこちらに挨拶をしてくれた。ああ、きっとこれが、答えなんだ。
オバ~に見送られたバスは青に変わった信号を右折した。



■6.28(tue) 『One More Week! Okinawa.』

三週間もの石垣島の旅、その余韻も抜けないまま朝のコーヒーを啜る。そして今週の土曜、夕方のフライトで東京へ戻る。後ろで聞こえるウェイトレスの沖縄方言がかわいい。
さぁ、今回自分の中で課題にしていた?オリジナルソングを残りの時間で作るとしよう!LIVEではカバーソングが中心に成りがち。やはり物足りない感がここ最近フツフツと湧いていた。勿論、海外でも歌いたいがまず日本で勝負するのが今は先決だろう。
とか言ってできるかな~っと半信半疑。それとも、LIVEで日記を朗読しようかな!?



■6.29(wed) 『ケイソンも沖縄の空では。』

ロングヒット カバーソング、もっとも歌い続けているケイソンの曲「VIVID」。彼のデビューシングルB面ソングだ。特にサビの歌詞が気にいってる。

♪ 空を見て 鳥を見て
夕日見て 星に願いを

こんなシチュエーションを探しに夕暮れ西側の海岸まで来た。夕陽は雲に隠れていたものの一番星はうっすら輝く。よし!ギターを取り出し防波堤に腰掛ける。
イントロ~Aメロ~Bメロ~そしてサビだ! ん!歌いながらキョロキョロするが鳥が現れない。仕方なく間奏に入りギターを踊らす。さぁ、このまま二回目のサビに流れるよ!と、その時、、、
「バタバタバタバタ」
前後のプロペラを轟かす巨大ヘリ三機が鳥の代わりに現れた。ギターの音も聴こえない。それでもエンディングまで唄った。






      To Be Continued....






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6月28日(火) 『世界中の人間で一斉にジャンプ!』

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先週の水曜からはじまったかけもちの仕事は、慣れるまではなかなかしんどいもので、ざっと今日一日の流れを書くのならば、

7:30に起き、
8:10に家を出る。
8:50の朝礼がはじまり、
12:00に仕事を終えると、
12:30に家に着く。
シャワーを浴び、昼飯に焼きそばをつくり、食べ、
職場仲間から借りた楳図和夫単行本未収録作品集を読む。
倉庫と昨夜のライブの疲れがどっぷりあるため、
14:00から二階のソファーで仮眠をする。
15:10、家を出て自転車を漕ぎ、梅田のカンテへ。
16:00からラストまで仕事。
23:40に家に着くと、もうひとつどっぷり疲れが重なって、二階のソファにバタンQ。

なにもなかったわけではないが、一日の記録を書けばとくになにもなかったようにも思える。
6月いっぴから、少々気合いを入れた一日一日記を続けてこれたのも、仕事をカンテ一本のみでしていた理由が大きいのかもしれないし、ぶっちゃけ時間があったからかもしれない。
でも、今日を含めての残り三日、なんとか内容のある日記を書ききりたい。






・・・でも、なにもなかったように思われる日常でも、いろいろと考えることはあった。

夕方、自動車の並びを横に、太陽に照り付けられらたアスファルト道路の上、そのモワモワした暑い空気に当たりながらチャリで走っていると、こんなことを思った。

家や会社、企業と自動車のエアコンの室外機や排気ガスの排出による気温の上昇、アスファルトによる蓄熱と放熱・・・。
近年の異常な暑さは、すなわちこれらのことが大きな原因の一部になってるんだろうな、と。
ぼくらひとりひとりの塵の積み重ねが、近年の日本の台風上陸を増加させたり、日本の四季のペースを乱しているのだろうな、などと考えていると、ありきたりなことであるが、世界中の人が同時にジャンプをすると地球はどうなるのだろう、と発想がひろがった。


家に帰ってからネットで調べてみると、「世界中の人間が一斉にジャンプしたら」というキーワードは、YAHOO知恵袋を中心にたくさんの応答でにぎわっていた。誰もが一度は考えていることかもしれない。
中には、「世界中の6億人で一斉にジャンプして、地球の軌道を変えて温暖化を止めよう」なるHPがあり、そのうちの一割、6千万人の参加希望者を集めたという怪しいものもあった。




ぼくなりにいろいろと調べ納得した結論は、「なにも起こらない。」ということ。
さて、と。大好きな単純計算をはじめます(笑)


まず、全世界中の人の体重を合計してみよう。
大きな人や小さな人、お年寄りから赤ちゃん、病気や寝たきりの人などぜんぶひっくるめると(平均的かつ想像的に)、
50kg×6000000000(60億人)=300000000000kg
つまり3億tになった。

次に、地球の重さをネットで調べてみると、「60億兆t」となっている。
意味がわからないので、とりあえず分かりやすく0で書き直してみると、
60億兆tは、
60000000000000000000000000kg、となる。
うーん、やっぱり意味わからん(笑)

ま、いいや。
結果、地球の体重と全人間の体重を割ってみたところ、200兆分の1のエネルギーにしか満たないことがわかる。
なんとなくだけど、なにも起こらないような気がしませんか。
わかりやすく別でたとえてみようか。


ある人がこんなことを書いていた。
「物理的には地球総人口の合計重量は相当な重さでしょうが、地球の質量に対しては、象にスズメが体当たりする程度の衝撃に過ぎず何事も起こらないでしょうね。」
なるほど。では、それも検証してみよう。

象の体重を5000kg(5t)、スズメの体重を約0.025kg(25g)として割ってみると、20万分の1のエネルギーになった。
これじゃ、200兆分の1と雲泥の差だ。
まだまだ納得いきませんよね。

てなわけで、今度は蟻の体重を調べてみた。0.000025kg(25mg)だ。
しかし、象の体重と比較すると2億分の1(200000000分の1)のエネルギーにはなるが、200兆分の1(200000000000000分の1)にはぜんぜんとどかない。


結論、「うっかり一匹の蟻がアフリカ象の足元に触覚が当たってしまったところでなにも起こらない」、というとこかな。・・・こんなんでいいのかな(笑)




でも、その人はこんなことも書いていた。

「世界中の人が一斉に ジャンプ して着地した場合、何が起こりますか?」
という質問に対して、


「先ず世界中の人種を越えた連帯感が芽生え、世界平和に貢献する事でしょうね。」







 
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2011年6月29日 (水)

6月27日(月) 『 2011.6.27 米ライブレポート@本町 Mother Popcorn 』

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いやー、まさかこんなにも楽しい夜になるとは思いもしなかった、ってくらい楽しい夜だった(笑)


現在、なんでも屋をしているりん太くんが主催するイベント、『アコースティックビギナーズ Vol.1』。たしかにみんなカバー曲しかしないってのはそうだったんだけど、ぜんぜんビギナーズちゃうしっ!

一番手の鬼束拓海くんは、生まれてはじめてステージで唄うおぼこい男の子だった。
とても初々しく新鮮なスタートにはじまり、二番目の柳原夏樹くんは、若手ながらカバーするは押尾コータロー。
三番目、還暦を迎えた坂本佐治さんは、プロ顔負けの渋ーいフォークソングの弾き語りをする。
で、ぼく。
五番目の金城吉和さんは、ふたたび押尾コータローをするのだが、柳原くんとはふたまわりも人生とギター経験が長いだけに、爪にアロンアルファを塗って綺麗な音を追求するってこだわりっぷり(しかも高いやつ!)。
トリで登場した主催者のりんたくんは、すでに14杯目のお酒を片手に脳ミソ天国状態ながら、拓海くんをボーカルにバックでドッシリとブレずにいいギターを弾く。
最後は、ギタリストが4人もステージにあがり、ぼくはジャンべを、坂本さんがまた渋ーくてノリのあるフォークソングを歌ってくれた。

ざっと昨夜のライブの流れを伝えるとこのようだが、生の現場では、気持ちよく酔ったお客さんのコテコテ大阪弁のヤジとつっこみ、出演者と主催者りん太くんらとの攻防なんて、もう滅茶苦茶面白すぎた!
昨日公園であったお兄さんも観に来てくれた!
ひさしく会う『Mother Popcorn』の店長日和さんとも、懐かしい思い出話をはじめいろいろとゆっくり語ることができたし、ぼくの中で、この店でなにか面白いことをしたいイメージがブヮァーッとひろがった・・・。


さてさて、マイライブレポートです。

昨年末に西九条『SOFT MACHINE』でした、『100 DAYS AROUND THE WORLD,Slide Talk Show!!』での反省点をきっかけに、ぼくは
自分のステージ=一本のお芝居を組み立てる
ような感覚で、決められた時間枠のなかで、いかに無駄を省き、いかにコクのあるステージをつくるか、ということにこだわりはじめた。

言わば自分でライブの「台本」をつくり、丹念に練習を繰り返す。
本番には、もちろんアドリブがあったり、練習では行き着くことのできない、「気持ち」が入ったりする。

昨年に大事にしてたMDウォークマンが壊れてしまったために音源こそ残していないが、以下、昨夜にしたぼくのライブを文章で記録しておきたい。
今回は、『アコースティックビギナーズ』のイベントテーマに合わせて、はじめてギターで歌った曲から、外国のストリートでの思い出話などで構成した。




-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

電光石火のコードを弾きながら静かに話しはじめる。

「高校生のとき・・・、ブルーハーツが好きでした。
19才のとき・・・、はじめてギターで歌えるようになったのは、この曲です。
ブルーハーツで、『電光石火』。」

そして、歌い出す。




『電光石火』  作詞・作曲:甲本ヒロト

電光石火の超特急が 流れ星と並んで走るという
銀河をこえて 星くずの彼方 一直線の稲光

何かにつまづいている人 何かを心配している人の
心の中のプラットホームに 流線形の輝くボディ

淋しい夜が何度続いても 切ない朝を何度向かえても
出かけよう さあ 出かけよう

電光石火 電光石火 お日様をむかえに行こう
電光石火 電光石火 電光石火で かけぬける


歴史の本の最後のページ 白紙のままで 誰にも読めないよ
出かけよう さあ 出かけよう

電光石火 電光石火 新しい星を見つける
電光石火 電光石火 電光石火で かけぬける




・・・曲が終わると、次のMCは、

「20代前半のとき、ぼくはギターとタイコを持って、世界中を旅していました。
中国、インド、ネパール、アフリカ、キューバといった、発展途上国と呼ばれるところでは、日本とはぜんぜん違って、
準備をしてる段階から人が集まってくる。そして、歌い出すと、ときには何十人の人たちに囲まれることもある。
国によって反応は様々で、ジ~っと見られたり、笑顔を見せてくれたり、拍手をくれたり、ときには、その国で流行っている歌を、みんなで歌ってくれたりしました。
今でもずっといい思い出として残っています。
さいしょに歌ったブルーハーツの曲、青空やトレイントレイン、キスしてほしいとか、自分でつくった歌。それと、九州の熊本県在住のシンガーで、風太郎さんて人がいるんですが、その人の歌詞も大好きで。
次に歌うのは、風太郎さんのナンバーで、『未来の原始人』。」




『未来の原始人』  作詞・作曲:風太郎

右や左のだんな様 忙しいのはなんのため?
地位 名誉 お金かね?
食べられません いざというとき

運転しながら テレビ見ながら 電話しながら いろいろしながら
ながらながらで長良川(ながらがわ)
舵のとれない漂流船か ブレーキのきかない暴走列車か

ストレスためて フラストレイション
欲張りすぎの ノーサティスファクション
横文字並べてカッコいい時代も過ぎて
どんな格好でも オーライ! オーライ!

目を覚ませ 原始人よ
越えて行こう 世紀末を

二千年の坂をのぼり 三千年の幕はひらいて
何万年の彼方から 未来から 時代を越えて


上へ下への大騒ぎ 楯や矛は戦いのため?
テストとゲームで育った先生 教えておくれ生きる道を

ひとつが終わり ひとつがはじまる
終わりもはじまりもないところ
まぶしいほどに 輝くときを
武器を捨てて 勇気をもって
歩いていこう 和の道を

目を覚ませ 原始人よ
越えて行こう 世紀末を

二千年の坂をのぼり 三千年の幕はひらいて
何万年の彼方から 未来から 時代を越えて




「・・・ひとつ、エッセイを読みます。


【9年前の肌寒い季節、国は年中真夏の西アフリカのこと。

世界の旅にまわったセネガル、日本から西に最も遠くの岬。
明日はアメリカへ飛び立つその前の日に、アフリカの旅、最後の夕日を見にここへやってきた。

宿が決まり、洗濯物を干し、1時間ほど歩いて着いたのが正午3時頃。
夕日を待ち、一人ぼーっと砂浜から海を眺め、気分にのせギターを弾き、歌う。
すると、普段からこのへんにたむろしている現地人が寄ってきた。
アジアやヨーロッパでは、道や公園で歌っていると、通りすがる人たちはもの珍しげにお客さんとして僕のまわりに集まってきた。
でも、アフリカは違った。

ぼくは、激しくブルーハーツを歌う。
そしたら、
「俺は、この地域じゃ名の知れたラッパーだぜ」
って、初めて聞く曲なのに、間奏のところにラップを入れてくる人がいる。

ぼくは、スローテンポで自分の曲を歌う。
ぼくのジャンベを叩きだす人がいる。おっきいの、ちっちゃいのって太鼓を叩きだす人たちがいる。

ぼくは、「運転しながら テレビ見ながら 電話しながら」って、大好きなシンガー、風太郎さんの歌詞を飛ばす。
あとを追って、「NAGARAー! NAGARAー! NAGARAー!」って、みんなが合唱をしてくる。

ぼくは、自分のジャンベを叩き出す。
すると、
「この人はね。この町でトーキングドラムをやっている先生なんだよ!」
女の子がホンマモンを連れてくる。

みんなどっかかしこから太鼓を持ってくる!
音楽に声をのせてくる!
日本語をまねて歌ってくる!
ピーヒャララって、笛を吹いてくる!
うまいヘタ関係なしに勝手に僕の歌にまぎれこんでくる!

一生の思い出の最高のセッションタイムだった。
まるで夢心地のような時間が過ぎ、あたりがぼんやり暗くなった頃、自然と集団は、解散した。

ぼくは、残った2人のアフリカ人と言葉を交わすこともなく、ただただ静かに、アフリカ最先端の岬に沈みゆく夕日を眺めていた・・・。】


・・・そのセッションの最中で生まれたのが、今から歌う『WEST AFRICA』です。
続いて、ジャンベ叩き語りのオリジナル曲、「Take it Sunrise」を歌って終わりにします。
あ、そうそう、7月22日(金)に、ぼくにとって1年9ヶ月ぶりのブッキングライブに取り組みました。
ぼくも一番手で歌います。そのときは、サポートにオーストラリアの管楽器、ディジュリドゥが入ってくれます。
もし覚えていたら、ぜひ遊びに来てください。
りんたくん、今日は誘ってくれてありがとう。
それでは、『WEST AFRICA』、続けて『Take it Sunrise』。
ジャンでした。」




『WEST AFRICA』  By.JAN

懐かしいな Uh Yeey
懐かしい匂いがする この西アフリカの大地で
土の香りを身に包み 遠く遠くやってきた
Ahrica Africa Africa ah ah ah ah ah


風を追いかけた Uh Yeey
いつの日にか憬れていた あの西アフリカの夕日を
原始リズムを刻み込み 強く強く踊りだせ
Africa Afrika Africa ah ah ah ah ah

WEST AFRICA, WEST WEST AFRICA
WEST AFRICA, I'm lolling lolling lolling stone
WEST AFRICA, WEST WEST AFRICA
WEST AFRICA, Hah




『Take it Sunrise』  By.JAN

寝ても覚めてもジャンクフード フレンチスタイルはごめんだ
オブリガードはブロードウィンド ちょいとかますぜゴージャスロックンロール

エデンの国は Don't cry me. そんなの意味がわからない
Just my friend そこは危険地帯 Hey you 気は確かかい?

ビー玉で遊んでいた懐かしい日々 もう戻れないけど心は永久に


ねぇハニー踊ろう夜が明けるまで 摩天楼で旅をして星になろう
大胆なキスをおくれ 疲れなんてふっ飛ばそう

ダーリン ダーリン ダッダッダッダーリン Oh オーダーリン

さぁ行こう 眠れないのさ さぁ行こう 日が昇るまで
さぁ行こう 眠れないのさ さぁ行こう てきとーなサンライズ
てきとーなサンライズ・・・




-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

・・・以上、MC込みでジャスト20分!
+アドリブ(ここには書いていません)が2~3分。

はじめて観てもらったお客さんにステージ構成の裏話をすると、
「まるでシナリオライターやな!」
と言われた。
そう、ぼくはライター(物書き)だ(笑)
そんなこんなで、JANオリジナルのライブステージができつつある。




■JAN LIVE DATE 2011.6.27(mon)

『アコースティックビギナーズ vol.1』@本町『Mother Popcorn』

曲目(20分)

1.電光石火 (ギター弾き語り)
2.未来の原始人 (ギター弾き語り)
3.WEST AFRICA (エッセイ朗読)
4.WEST AFRICA (ジャンベ叩き語り)
5.Take it Sunrise (ジャンベ叩き語り)








■JAN・次回のライブ告知

◎7月9日(土)【イーノ・輪太郎のサマーフェスティバル】@東心斎橋『ら』
http://www.uotan.com/

◎7月22日(金)【SOUL TARMINAL vol.3】@十三『CLUB WATER』
 
 
 
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6月26日(日) 『弁天埠頭公園にて』

10年前、住吉区の長居公園へ通っていたときは、いろいろな出逢いがあった。
今でもずっと付き合いが続く友人、松本りんたろうさんや良元優作とはじめて会ったのも長居公園だった。
昨年末よりぼくは、音楽の練習場所として徒歩3分圏内にある弁天埠頭公園をよく利用しているのだが、あいにくそこで人と接するということはなかった。

カンテ出勤前の正午。明日はライブ本番のため、ここ最近の日課のよう弁天埠頭公園へ練習に行くと、木陰の下でギターを弾いているお兄さんが居た。

たぶん公園に来ている目的はおなじだろうが、互いに気を使わずに練習ができるよう、ぼくは声を出す前にあいさつにいった。

「・・・あのー、こんにちは。
今からむこうで唄の練習をはじめるんですけど、
もし邪魔になったらすんません。
でも、互いに気にせず練習してきましょー。」

もう一度言うが、いまだかつてこの公園でこういったパターンはなかった。
せいぜい犬の散歩をしているおばちゃんが通ったり、ゴルフの素振りの練習をするおじちゃんがいたりはしたが、みんなすれちがいで、みんな寡黙だった。
たまに交流をとってくれるお客さんがあらわれたと思えば、それは鳩だった。
鳩だけは「ポッポ。ポッポ。」と声をかけ近よってきてくれたが、訳せば「餌くれよ。」ばかり。いやいや、ブルースですな。。。

お兄さんはぼくに、
「唄いはるんですか?」
ぼくはお兄さんに、
「ギターするんですか?」

たわいのないあいさつをきっかけに世間話がはじまった。
「何年か前、そこのビルのなかに吟遊詩人って怪しげなライブバーがありましたよね。知ってます?」
「あ、ぼく、その店やってたんですよ。」

会話はひろがっていく。
5、6歳はなれたお兄さんは、ぼくが店をしていたころは、日本全国をいろんなバンドに携わりまわっていたドラマーだった。ギターはつい最近さわりはじめたが、家では練習がしにくいので近所の公園に来だしたという。ちなみに吟遊詩人を訪れる機会はなかったらしい。

ぼくは明日のライブの話をすると、弁天埠頭公園ではじめて聞いてくれる態勢をもってくれた人を前に、明日の公開リハーサルライブみたいなノリで唄を歌った。

「・・・いやー、ありがとう!
今日のライブの打ち上げに今度ビールをおごらせてよ。」
ライブの打ち上げって言ってもらえるくらいの、ガチの公開リハーサルをしてしまったぼくである。
お兄さんとは連絡先を交換した。

日々、日常を過ごす中で、ただ道ですれちがう人、近所に、大阪に、日本に、地球に住んでいるたくさんの人たちがいる。
もとはみな知らない人たちだけど、ほんのちょっとしたきっかけから、出逢いがあり、思い出ができ、交流が続くことを、ぼくはたまに不思議に感じる。

いよいよ明日は本番だ。
おかげさまで、いいステージができそうだ。

【アコースティックビギナーズ】

出演:金城吉和/JAN/りん太/竹本佐治/柳原夏樹/鬼束拓海

6月27日(月)
OPEN  19:00
START 19:30

¥1000(ドリンク代別途要)

@Mother Popcorn
大阪市西区西本町1-10-22 B-1
tel 06-6535-0002
http://www.mother-popcorn.com/

地下鉄四ツ橋線「本町駅」24番出口(徒歩20秒)すぐのファミリーマートを右に曲がり。少し(10m位)行くとドトールコーヒー(21:00には閉まってますので通り過ぎないように注意して下さい。)があります。そのビルの地下1階。

◎6月27日(月)、本町[Mother Popcorn]で、ライブのソロ出演があります。友達から誘われて受けたのだけど、「アコースティックビギナーズ」といったタイトルだけに出演者たちは、ほぼライブハウス未経験の若者たち(ま、ぼくも似たようなもんだけど)。ちょっと小恥ずかしいこともあるけれど、原点回帰に気持ちを戻し、初めてギターで歌ったブルーハーツの「電光石火」からはじめよう。

 

 

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2011年6月27日 (月)

6月25日(土) 『今夜のストリートリスト♪』

仕事帰りに梅田の某路上で歌う。あくまで練習なんだけど、なんやかんやで虚無感が残る。明後日はお客さんの前で歌えることが嬉しい! 今夜のストリートリスト♪
1.DREAM MAN 2.BEER NIGHT 3.タッタヒトツノモノ 4.未来の原始人(風太郎) 5.電光石火(ブルーハーツ) 6.WEST AFRICA 7.Take it Sunrise


上は、6月25日(土)につぶやいたやつだ。
ま、この日あったことと言えばこのようなことで、3日前から十三、十三(じつは昨日、井上卓さんのライブ前に十三高架下で1時間半ほど歌っていたのだ。しかし稼ぎは0!)、梅田と3日連続で路上で歌ったのだが、「ハングリー精神」の向こう側に見えた「あわよくば精神」はもろくもやぶれた。そう考えたら、数日前に弁天町高架下で入った750円は奇跡にも感じる。
仮に1日750円の稼ぎを1ヶ月のうち20日間続けたら、自由に使える15000円ものお小遣いが入ってくるわけだが、世の中そんなに甘くはなかった。

そう、6月いっぴから一日一日記を書いているが、これがなかなか調子がいいというか、ひとつひとつを一作品とする想いでけっこう気合いを入れて書いているつもりだ。
先日からハードなかけもちの仕事がはじまったので、2ヶ月、3ヶ月、1年、2年とこのペースで書き続けることはむずかしいとは思うが、それでも今回挑戦した一日一日記は、『JAN BOOK』の中に一つのコ-ナーとして設けれたらいいな、なんてこともちょっと考えてたりしている。「2011年6月のジャン日記」みたいな感じで。

さて、『JAN BOOK』の構成をどう考えているのか?
自分の生き様を軸に、エッセイ、人生ゲーム、詩、旅、BARなどの各章に分けたいと、今のところは考えている。
最近新しく追加したものは、カンテ茶新聞に掲載された文章のみをまとめた章があってもいいかも、とか思ってもいる。

今、書いた「人生ゲーム」という章はなにか?
それは、ぼくの自己本の大黒柱のようなものでもあって、ここ数年の間に1994年から2002年までをとりあえずまとめているぼくの人生のおおまかな流れだ。
ぼくは、「人生ゲーム」を本の序章として、そこから各章へ物語をひろげていくイメージをもっている。
歌手がオリジナルの歌を歌うよう、誰もがオリジナルの人生を謳歌している。そう考えれば、自分の本を書こうとする行為は、なんらおかしなことではない、と僕は思う。

「2011年6月のジャン日記」を6月いっぱい書き続けたあとに、再度、2003年からの「人生ゲーム」の続きを書いていくつもりでいるので、その心意気も含め、以下に、今までに書いた「人生ゲーム」を載せておきたいと思う。    JAN








■人生ゲーム[2001~2002]

2000年12月20日、2回目の世界一周旅行を終えた晩、直後に入院生活がはじまった。大晦日と正月は実家の静岡県掛川市へ帰り、子供の頃から馴染みある神社へ歩き、除夜の鐘を突き、参拝をした。


2001年、正月の三ケ日が明け、大阪に戻る。
数日後、退院した時は恥ずかしくもプータロー。時間のあった僕は、青春切符を使い、はじめての四国へ足を運んだ。道中、讃岐うどんを食べたりしながら、入院中に読んだ坂本龍馬の本に感化を受けてか、高知は土佐の桂ヶ浜まで行く。その昔、彼らの文明開化の行動があったからこそ今の日本があるんだなァ。砂浜で黄昏つつ、龍馬と同じ目線で遠くアメリカを見る。

春先からは、世界的規模のテーマパークが動く瞬間を体験したい、という想いで、USJのオープニングスタッフで働くことになった。
バーテン希望だったがアウト。アイルランドパブレストランの「フィネガンズ」のキッチンで働く。店内では、アイリッシュの生演奏をしていた。
USJのスタッフ特典として、いくつかの条件がありつつも、園内で遊びたい放題ってのがあった。ここに勤めてる間に、計にして3回とおりはまわった。楽しい職場だった。


この頃から、いつの日かライブができる最高な自分の店をつくるぞ、と本格的に決意し行動に移っていた。

「日本全国ライブバー巡り」と銘打って、仕事の休みを合間見ては、噂に聞く全国の店をまわっていこうとした。
店に行って何をしたかといえば、カウンターに座り、立地条件、音響設備、内装などを考察したり、酒を飲みマスターと話を交わしただけのこと。
ただし、ちょっと変わっていたのは、なぜこういう店をしようと思ったのか?どうやって立ち上げたのか?どういうふうにミュージシャンとつながりを作っていったのか?などのあらかじめ用意しておいた質問をしてまわった。
石川県出身のミュージシャンから紹介をうけて行った金沢市の「メロメロポッチ」では、この店のつながりからピアノ弾き語りのシンガーソングライター、タテタカコさんとの交流がはじまったり、長野の「ブルージーンズ」では、全国の隠れた伝説的なミュージシャン達が所属する音楽事務所「日本晴レコード」の存在を教えてもらった。
各店を巡った出来事やマスターとの会話をまとめた一冊のノートは、たまに読み返してはその当時の気持ちを思い起こすことのできるバイブルでもある。
ちなみに、当時有名だった関西圏のライブバー、ライブハウスへは、ほとんどその頃に足跡をつけていったと思う。

5月のGWには、九州は阿蘇山「虹の岬まつり」に行った。
「フジロック」で知られる大規模な野外フェスも、もともとはこのような「まつり」を原型にはじまったと思う。
だだっ広い阿蘇の山中の高原地帯に、北海道、東京、関西、九州全土のあらゆるところから、車、バイクに乗り、ヒッチハイクをし、現代を生きるヒッピーのごとく、いろんな人たちが集まってくる。夜はあちこちにいくつもの焚き火を囲み、知らない人同士が集まってはギターで歌い、ジャンベを叩き、酒を交わし、友達になる。
山奥でとってきた竹でライブステージをつくり、GWの6日間にわたり、天然野外のライブも繰り広げられていた。
このまつりが縁で、大阪のロックバンド「LOVEDLOVED」や、東京のミュージシャンたちと出会いがあり、その後、僕のつながりの中にバンドマンたちの交流が広がっていった。


直感で動く、という趣がある。
ある日、なんとなしに一観客として、京都の老舗ライブハウス「拾徳」の飛び入りライブに行きたくなった。USJの仕事を夕方に終えると、家にも寄らず楽器も持たずに拾徳へ行った。
ギターの弾き語りで、ヒップホップとレゲエを唄う斬新なシンガーがいた。名は「パンチ」といった。はじめて見る彼のリズムに魅せられ、膝に手をやりリズムを刻みながら、彼のステージを見ていた。
最初は客で来ていたつもりが、ステージで歌いたい気持ちが騒ぎだす。楽器を持っていなかった僕は、手持ちのかばんにマイクをあて、リバーブを聞かせてもらい、持ち歌を唄った。
僕の歌舞伎者的なステージを見た彼も興味をしめし、その日の夜、二人は意気投合し、現在まで親友として付き合いが続いている。

パンチとユニットを組んだ。
単純に、彼のバックで僕がジャンベを叩き、コーラスをする。たまにソロで自分の持ち歌を唄う。どんな時にも熱い夜に変えてやろう、という意味合いから、ユニット名は「熱帯夜」と名前をつけた。
仕事のOFFの日は、京都にある彼の部屋を改装したパンチスタジオに通い、楽曲の練習をした。


妹から紹介をうけた西九条にあるBAR「ソフトマシン」で、「熱帯夜」初のデビュー&ワンマンライブの日取りを決め、手書きながら気持ちのこもったチラシをつくり、職場の人たちなどに宣伝をし、その日を楽しみに待っていた2002年の春・・・、事故は起こった。

USJと前年の秋頃からはじめた居酒屋のかけもち、そしてプライベートのあれこれ。睡眠時間を削り、せわしなく働き、遊んでいた。
USJにて、いつもの厨房の片づけをしていたときのことだ。180℃にもたっしたフライヤーの油をバケツに溜め、廃油として捨てる作業がある。極度の疲れからか、一瞬気をゆるめたその時、バケツを落とし左足の膝に被り大火傷をおった。
人生2度目の2週間にわたる入院生活がはじまった。数年後、どっちの足を火傷したのか自分でもわからないほどに火傷の痕が消えたことは、自分の中の恐るべき治癒能力の発見だった。

入院中、ベッドの上で、職場の予習・復習をしたり、今後のためを考えて酒やカクテルの勉強をした。
そして、この数年の間に自分の店をもつぞ、と気持ちを込め、ノートに自分の店をどんなふうにするのかという具体的な内容を細々と書き綴った。そこに書いたノートの内容が、自分の店「吟遊詩人」の原型になり、不思議な縁を引き寄せることになる。


退院後は、もっと料理に携わりたいわがままを通し、USJを辞め、居酒屋一本に仕事を切り替えた。

大火傷をしたことがきっかけか、「熱帯夜」のデビューライブをするはずだったBAR「ソフトマシン」と深い交流がはじまり、3月から月一で、僕のプロデゥース、及びブッキングライブ「LIVE 吟遊詩人」シリーズをスタートさせた。
今まで知り合ってきたミュージシャンたちに声をかけ、回毎にライブのテーマを決め、自信のかぎりのライブをつくっていった。オープニングでは、いつも一曲入魂で歌を唄い、その日のテーマを口上した。
2002年も暮れに近づいたきた頃、マスターから耳寄りな話がくる。

港区の弁天町に「加藤汽船ビル」という今は廃業している旧フェリーターミナルがあった。
ビル内で当時活気だっていた、酒屋、喫茶店、うどん屋、ゲームセンター、おみやげ屋などの跡地を、この時代の先端をゆくクリエイターをはじめ、工房や写真スタジオ、個人の店に改装し、魅惑溢れる隠れ家のスポットとして賑わいをみせていた。
そのビル内で、バーをしていた店主が、事情あって一年限定の代理店長を募集しているという。内装、屋号等、全部好きにしてもいい好条件つきで。バーの店主はソフトマシンの常連客でもあった。
すでに、ほかに借りようとしている人が二人いた。そのうちの一人は、この数日で答えを出してくるらしい。早い者勝ちということである。
僕は3日で決断をだした。それからは、居酒屋の仕事が終わると、十三から加藤汽船ビルまで自転車を漕ぎ、とりあえずは、そうじ、かたづけを続けた。作業が終わると折りたたみのチェアーベッドに体を休め、天井を眺めイメージを沸かせ睡眠をとった。

大晦日をもって居酒屋の仕事を辞めた。
その晩の職場の忘年会の時、うっかり公園に止めた自転車のカゴに忘れていった大事な寝袋をどこぞの誰かに盗られてしまったが、極寒の冬、一人のホームレスのおっちゃんの命を救ったと思い込み年を越す。

運命は、時計の歯車のごとく決められた軸をまわるよう、ぐるぐるぐるぐると動きはじめていた・・・。        

                               2010.7.31


              To Be Continued...
                 






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■『JAN BOOK ~いつか僕の本を出すための公開メモ帳~』
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6月24日(金) 『井上卓の世界』

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5月末、十三のライブバー「テハンノ」の純平くんの結婚パーティーで数年ぶりに再会した。

今年の5月、過去にぼくが組んできたブッキングリストをまとめたのだが(【2002.3.17 - 2009.11.2 『ぶっきんぐまねー者・JAN』+『LIVE 吟遊詩人』の記録 ~出演者編~】http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/2002317---20091.html)、その人は出演回数が二番目と大差を開いてのダントツのトップだった。

その話をすると、
「気持ちが通じあってたからや~。」
と気さくに言ってくれた。

やさしかった。
あたたかかった。
ずっと変わっていなかった。

離れてしまったと思っていたのは、ぼくの勝手な勘違いだったかもしれない。
この人は、何年経っても何一つ変わっていなかった。
一切連絡をとっていなかった3年間が、昨日と今日の出来事のように消えてしまった。


男の名は「井上卓」。
ぼくはこの人のことを「天上天下唯一無二の男」と呼びたい。
ギターの5,6弦にベース弦を貼り、タッピング奏法で叩く、叩く。
ライブハウスによっては、スピーカーからバスドラムの音が弾き飛んでくる。
ピックは持たず、暴れる指は目にも追いつかない。
一曲一曲が芝居を観ているよう、喜怒哀楽の表情と深い物語を感じる歌詞世界。
ハードコア、パンク、ロックバンドらとタイバンをさせられることがよくあるが、井上卓は一切引けをとらないばかりか、弾き語りだけども勝ってしまう力をもっている。
井上卓を観る人は泣くか笑うかに分かれる。惹かれるも、退かれるも、必ず反応があるのだ。
井上卓の信念はとてつもなく強い。自然を愛する心、人間のこと・・・、心、心、心。一見あれだけ鬼人のような音楽であるが、唄の中にはとてつもない愛があり、心があり、やさしさがあり、「日本の心」がある。


この日、3年ぶりに観た井上卓のステージは、今も昔も変わらずだった。
なんならはじめて見た10年前からの変化もなかった。
あまりにも久しぶりで、僕だけか、はては井上さんもか、なんかちょっと恥ずかしい気がしていたのかどうかはわからないが、ライブ後の宴ではほとんど話を交わすことはなかった。しかし、話したいことはたくさんあった。


・・・想うことはひとつだけ。

日本では狭い。
井上卓という音楽家は、やはり世界で活躍してほしい。




井上卓の世界(HP)
http://3w.to/t1








写真:2005年、井上卓、初の海外ライブツアー(in 韓国)に同行したときにぼくがメモをしたノート。
 
 
 
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2011年6月26日 (日)

6月23日(木) 『路上(ストリート)からひろがる出逢い① ~酒井ヒロキ~』

カンテ帰りの夜11時過ぎ、十三の高架下に練習をしにいった。
あわよくば明日(井上卓ワンマンライブ)の酒代が入ればいいな、とちょっといやらしい気持ちも抱えて。。。

今年に入ってから、なんかしら十三に足を運ぶことが多くなった。
そもそも、昔ぼくは十三に4年も住んでいた。言わば庭であり、思い出の倉庫だ。
路上で出逢った友達のことを話したい。

 

 

 

 

1998年、ぼくは住吉区我孫子のボロアパートに住んでいて、毎夜、長居公園に通っては歌を歌っていた。
南港で劇団「維新派」が舞台「王国」をしたとき、「維新派」の音楽監督「内橋和久」さんのライブの折込チラシをきっかけに、十三にあったライブレストラン「RED LION」にお客さんとして通うようになった。
そうやってぼくは十三という街になじんでいくわけだが、そこでヒロキと出逢った。

当時高校三年生だった彼は、十三の阪急電車高架下でミスチルや山崎まさよしらを歌っていた。
ギターはコード弾きだけだったが(たしか)、すでにすごく洗練されていて、透き通る声は昔も変わらずの、いわゆるスーパー高校生だった。

今では週に何回か大阪のどこかのライブバーでおこなわれている「飛び入り」というライブシステム。その頃大阪にはあまりなく、ぼくは阪急電車に乗って、京都の「拾得」というライブハウスまで行っていた。
「拾得」の「飛び入り」や、「RED LION」の帰りに十三高架下へ寄れば、たいがいヒロキは歌っている。
5年の歳の差は関係なく、友達のような付き合いがはじまり、ジャンベでセッションをしたり、朝方まで夢を語ったりしていたものだ。

 

 

「RED LION」でも「飛び入り」がはじまった。ぼくはヒロキの背中を押し、はじめて音響のあるステージでライブをする経験をしてもらった。

ある日から、ぼくは「RED LION」で働くようになった。家も十三に引っ越した。
ヒロキは高校を卒業すると、京都の音楽専門学校へ進学した。

 

 

事情あって「RED LION」は2000年の8月に閉店し、9月12日より、ぼくはギターとジャンベを持って二回目の「100日間世界一周」に飛び出した。
帰国直後に病気で入院し、翌年からはUSJのオープニングスタッフで働いた。
 

2002年の春に大火傷を負い、人生二回目の入院をしたことが縁だったのか(近い日に「事故紹介」と題してエッセイを書きたいと思っている。じつは昨年にも手術をうけるなど、意外とぼくは事故が多かったりする)、退院後に西九条のBAR「SOFT MACHINE」で、月一のペースで「LIVE 吟遊詩人」とタイトルをつけたブッキングライブを開始した。

そう、この間もずっとぼくは十三に住んでいて、回数こそ減ったが、たまにヒロキと遊ぶこともあれば、「拾得」の「飛び入り」で、新しい親友、「パンチ」と出逢うこともあった。

「LIVE 吟遊詩人」の一回目、つまり、ぼくが生まれてはじめてブッキングをしたライブにはヒロキに出演してもらった。ほか共演者は、井上卓さんと松本りんたろうさん。この二人もぼくにとって特別な存在だ。

 

 

2003年の3月、ぼくは弁天町に自分の店「吟遊詩人」を出し、「日本一のライブバー」、「日本一のブッキングマネージャー」を志しに、新しい物語をつくっていった。
ヒロキは、自分のラジオも持ち、ファンも増やし、谷口崇、リクオ、CARAVANなど実力あるシンガーたちと同じ舞台に立つ動きをしていった。

 

 

人は誰もが夢に向かっていけば、価値を分かち合え、切磋琢磨してがんばっていける「友」との出逢いがある。
酒井ヒロキ、沢田ナオヤ、高木まひこ。最高な唄うたいを目指す、1982年生まれのこの3人がわかりやすい。

2008年7月、店を閉める一ヶ月前。ぼくはヒロキにお願いして、この3人のスリーマンライブを吟遊詩人でしてもらった。
自己満足でもかまわない。この日も、ぼくの中では「日本一」のライブバー、ブッキングを味わえた一夜だった。

そのときに彼が言ったMC、
「ジャンは、またいつか必ずおもしろいことをする人だ。次の復帰を、動きを楽しみに待っている。」

ヒロキとはあれ以来会ってないな。すぐに形をつくることはむずかしいけど、それでもたまにこのMCを思い出しては、今では逆に背中を押してもらっている。
今でも彼は前進し続けているし、ぼくもそうだ。
彼にはまだまだ成り上がっていってほしいと願えば、いつも影ながら応援している。

これからも互いに少しづつ夢を形にし、自分の信じる道を歩いていくんだろうな。

 

■酒井ヒロキ -オフィシャルサイト-
http://www.sakaihiroki.com/info.php

  

   

   

  

P.S.ちょっと自分のライブ告知をば。。。

場所と主催者が変われば、ライブ趣旨も店の雰囲気もまったくちがうものになる。それぞれにちがった想いを寄せ、いいステージができるよう練習していきます。
以下、詳細をリンクしています。どうぞヨロシクお願いします。    JAN

■6月27日(月)【アコースティックビギナーズ】@本町『Mother Popcorn』
http://www.mother-popcorn.com/

■7月9日(土)【イーノ・輪太郎のサマーフェスティバル】@東心斎橋『ら』
http://www.uotan.com/

■7月22日(金)【SOUL TARMINAL vol.3】@十三『CLUB WATER』
http://soundbar.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-82fd.html

 

   

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2011年6月25日 (土)

6月22日(水) 『工場勤務の思い出話 ~factory's memory~』

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よくもわるくもやりたいように生きてきているぼくは、数えれば両手・両足のぜんぶの指をあわせてもちょっとはみだすくらいの仕事をしてきている。
ちょうど夏至の日からはじまったかけもちの倉庫勤務(港区尻無川沿いにある。主に様々なピッキング作業)。工場・倉庫というジャンルでいえば4回目になる。
どんな職場であれ思い出はできるもので、昔の工場・倉庫勤務から生まれた面白エピソードをちょこちょこっと書き出してみようと思う。

1996年、高卒後、まわりの友達は進学か就職かのどちらかの道へ進んでいった。そんな中ぼくは、当時としてはめずらしかった「フリーター」という道を選んだ。

なかなかの大企業「NEC」の工場が家の近所にあったことと、工業高校の電気科卒だったことも幸いし、派遣スタッフとしてそこで働くことになった(携帯電話回線の母体機械を配線し組み立てるという内容)。
昔はフリーターの景気もよく、時給1250円、休日出勤や残業をすると1500円ももらえたものだ。

入社したての昼休み、食事を終えると工場の外壁脇の芝生の上で、腕立て、腹筋、スクワットなどの筋トレをしたあと(まだ格闘マニアのクセが残っていた)、窓に自分の姿がよく映るので、鏡に向かうように、シャドーボクシングに似たトレーニングをしていた。
一ヶ月ほどたったある日、その窓がマジックミラー(注)であったことを知り、昼休みもその窓越しの工場内で休憩をしている人がいることを知ったときの照れくささは凄いものがあった!

半年後、ぼくはそこで稼いだお金をもとに、自転車で日本一周を目標にした旅へでかけることになる。

2004年6月半ば~2005年1月半ばの半年間、松下電器工場で派遣スタッフとして働いた(プラズマTVを梱包出荷するという内容)。
店をしているにもかかわらず、電話が止まってしまうほどお金に困っていたこの時期は、たぶんぼくの半生の中で一番過酷だったかもしれない。

勤務地は弁天町からけっこう離れた茨木市にあった。
朝8時の朝礼に間に合うよう、家を7時前に出る(といっても、当時は店の奥を改装して住居にしていた)。
そして、日勤10.5時間労働は、夜7時半に終わり、ぼくは一目をしのんで社員用シャワールームで体を洗い、電車に乗って弁天町に着くと、コンビニに寄ってビールやつまみを買出しし、夜9時から深夜1~2時頃まで店を開けた。
3時間ほど睡眠をとると、また早朝6時に起き、茨木市の工場へ通う日々(週5勤務)。その上で月に4、5本のブッキングライブをつくる。このローテーションを半年間続けた。
だからというか、その後、めっちゃしんどいことがあっても、このときのことを思い出せばだいたいのことは乗り越えられるようにもなった。

23歳、インドを旅したときのこと。
聖なるガンジス川で知られる街、バラナシから北方10キロほど行ったところに、サルナートという村がある。釈迦が悟りを開いたあと、初めて説法を説いた地とされ、その村には、仏教、キリスト教、ヒンドゥ教など、たくさんの宗派の寺院が集まっている。別名「天竺」とも呼ばれている村だ。
そこの日本寺院で若いお坊さんと出会っていたのだけど、その4年後、この松下電器工場でぼくの入ったチームのリーダーをしていたIさんが、なんとその時に話を交わした若いお坊さんだったのだ!
世界の狭さというか、「縁」というものを強く感じた。

もちろんIさんは、吟遊詩人に3回ほど足を運んでくれれば、Iさんから紹介してもらった港区在住のUさんは、のちに店の常連さんになり、ぼくとも個人的に深い交流がはじまった。
うーん、「縁」だなぁ、としみじみ思う。

約5年半やってきた吟遊詩人では、基本は九条にある焼肉屋『アジヨシ』を中心に、新聞配達やさきほど書いた松下電器工場、パチンコ屋(1週間でクビ!)などを昼にしつつ、かけもちの仕事なしで店一本でやっていたのは、約5年半のうちの計8ヶ月くらいだと思う。

2007年の秋から年末にかけて、わずか3ヶ月ほど働いていた弁天界隈にある倉庫でのこと(ウィスキーやワイン、リキュール酒を梱包・検品する内容)。
港区には、1928年から1984年にかけて、国鉄の大阪環状線貨物支線(大阪臨港線)という貨物線があったらしい。
その倉庫は、昔、線路があったところに建てられている。

秋、会社の催しでビアガーデンをしたことがあった。会場は、荷物出荷のためにトラックが頻繁に出入りをするアスファルトの上だ。
切り抜いたドラム缶に炭を入れ網がしかれ、酒屋から借りてきた生ビールのサーバー二台がアスファルト上に置かれる。
パイプイスに座り、宴のはじまりを待っているとき、残業仕事をしている4tトラックがバックで入ってきた。
「あのトラックの扉が開いたら、中から牛が飛び出してくるんちゃうか(笑)」
向かいの人が言ったこの冗談はたまらなく面白く、一瞬、本気で想像してしまった。
昔、線路があり、貨物電車が走っていたその場所で、埠頭の気持ちいい海風が吹く星空の下、生ビールを呑み、焼肉を食べるシュチュエーションは浪漫あふれるものがあり、とてもよい思い出に残っている。

・・・話は今に戻る。
本日かけもち倉庫の初出勤をしてきたわけだが(カンテが休みだったので残業で6:45まで働いた)、しかし、想像をはるかに超えるしんどさがあった。
面接の時点で、週4の午前勤務のみにしておいたことが救われた。なにせエアコンが一切効いていないので、すごく蒸し暑く、サウナの中で運動をしている感じだった。これからさらに暑くなるというので、ある程度の覚悟が必要だろう。
今年の夏が終わった頃には、めっちゃやせてるだろうな。目指せ、竹○内豊(笑) もしくは、スリムになったやくみ○るか!?

職場帰りに、港区の赤レンガ倉庫前でキャンドルナイトをしていたので夕涼みに寄っていった。あれだけ汗をかいたあとに浴びる海風のなんて気持ちいいことか!
これからはじまる倉庫勤務、はてはてどんな面白いことが待っているのか!?
・・・ま、脱水症状だけ起こさぬよう、注意していきます。。。

写真:松下電器工場で働いていたときにつくった、ダンボールとテープとマジックとセロハンとスタンプを駆使したアート作品です。

注:マジック‐ミラー《(和)magic+mirror》・・・明るい側を見るときには透けて見えるが、明るい側からは反射のために見えないガラス。板ガラスに銀や錫をめっきして半透明にしたもの。マジックガラス。

注2:キャンドルナイト・・・カナダでの反原発の自主停電運動をヒントに、日本でも2003年よりスタートした。夏至と冬至の夜、20-22時、電気を消して、キャンドルを灯そうというキャンペーン。自発性と多様性が重視され、単なる省エネ運動にとどまらない広がりがある。

 

 

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2011年6月23日 (木)

6月21日(火) 『神さまの遊び心』

職場に、チャーミングな笑顔とユニークな発想をもった女の子がいる。
たまに素朴な疑問を投げてくる。

ちっちゃい子供が大人に、
「ねぇねぇ、象さんのお鼻はどーして長いの?」
と質問する、そんな感じだ。



今日、こんなことを聞かれた。

「魚の色、赤、白ちがうやん。なんで?」



ぼくはグレートジャーニーを基礎に、さもちょっとごまかすようにこう答えた。

「うーん、魚のことはよくわからんけど、たぶん環境のせいじゃないかな。ちょっと話を人間にたとえてもいいかな。
黒人や白人や、ぼくら黄色人、国によってみんな肌の色がちがうよね。
人類の起源って知ってる?
人間の祖先ってさ、約400万年前に東アフリカで誕生したんだ。
でさ、ながーい年月をかけて大移動して、人類は世界中にひろがったんだよ。」



彼女は言う。

「えっ!?アダムとイブはいないのん?」



ぼくはキザに話し続ける。

「・・・。ぼくの考える中ではアダムとイブはいないなぁ。
ま、いいや、続けるね。
それからさ、各大陸に住みついたそれぞれの人間は長い年月をかけて・・・、
そう、太陽の光や気候、食べるものとかでさ、
環境に応じて身体が変化していったんだ。
アフリカ人の肌って黒くてさ、ヨーロッパの人たちの肌は白いよね。
それも太陽光とかの環境だと思う。
でさ、アメリカ人って、白人のイメージあるよね。
でもアメリカ大陸の先住民は肌の茶色いインディアンでさ、
カリブ海や南米に肌が黒い人が多いのはね、
歴史をたどるとアフリカからやってきてるのって知ってるよね。
あと、ずっと昔からアマゾンのジャングルとかに原住民がいるよね。
たまに肌の白い人がいるのは、ヨーロッパからやってきた人の血筋なんだよ。
そうやっていろんな人種が交じり合いながら、
いろんな人が生まれてってんだよ。」



ぼくは皿洗いをしながら、クドクドと話を続ける。

「インドのことなんだけどね、
むかーしむかし、インドは離れたひとつの大陸で、
ユーラシア大陸とぶつかった衝動でヒマラヤ山脈ができたんだってさ。
だからさ、南インドの人はみんな背がちっちゃくてね、肌も真っ黒なんだ。
環境によって変わるのは、肌や目の色、髪の色だけじゃない。
国によって人柄や性格がちがうのも、環境のせいだと思うんだ。
たとえば、タイやバリの人って根本的にゆるいよね。
年中暑いとこだから、なんてゆーか仕事もなかなかがんばる気になれない。
しゃべり方も口の中が暑さでちょっと粘ついてるから、ゆるーくなる。
逆にロシアやアラスカとかの人って、発音がはっきりしてるんじゃないかな。
春夏秋冬のある国、日本人の人柄って、個性的だったり複雑だったりするよね。
日本やアメリカやヨーロッパがほかの国のどこよりも経済発展してきたのは、
厳しい環境の変化にうまく対応していくことでさ、
なにかが強くなっていったんじゃないかな、とか思うな。」



話は、自分からぐるっとまわしといて、ふたたび最初にもどした。

「・・・熱帯魚とか、インコや熱帯雨林などに飛んでる鳥とかも、
カラフルできれいだよね。
今話した環境のことだけじゃまとめきれないかもな。
でもぼくはそーゆーのってさ、神さまの遊び心かと思ってる。」



ぼくの答えがまずかったのか、女の子はもう一度疑問を繰り返した。

「いやちゃうねん。わたしが聞いてるんはね、刺身食べるときあるやん。
マグロって赤やん。鯛って白やん。
なんで魚によって色がちがうんかな、ってそこやねん。」



END






追記:

なんで肌の色がちがうのか?
女の子の質問からはだいぶそれてしまったが、
正直、なんかぼく自身あやふやなところもあったりした。
よし、もう少し突き詰めてみよう、ってことでネットで調べてみたところ、
大まかなところはけっこう当たってたのでホッとした。。。

以下、『「体のギモン」にやさしく答える本・PHP研究所』
より抜粋した文章です。
最後まで読むと、凄く大切なメッセージが書いてあります。
ほか、いろいろと勉強になりました。よろしければご一読どうぞ!



■肌、髪、目の色はどうして、人によってちがうの?■

----------------------------------------------------------------

◆子供へのわかりやすい回答◆


人間は、どうやって生まれて、進化してきたか、教えてあげたよね。


同じ地球でも暑いところや寒いところがあるよね。
北極の近くと、赤道の近くだと、すご~く暮らし方が違うよね。

そうするとね、同じ人間でも、やっぱり進化のしかたが違ってくるんだ。


実はね。色に違いが出てくるのは、太陽の光のせいなんだ。

空は何故青いの?とか どうして虹ができるの?で教えてあげたけど、

太陽からは、色んな光が地球に届くよね。その中には、「紫外線」といって、
人の目には見えない光もあるんだ。

紫外線は、人間に必要な栄養を作る仕事や、
ばい菌をやっつける事もしてくれるんだけど、
あまり長い時間浴びていると、肌には良くない光なんだよ。

夏にプールで泳いだり、海に行った時に、あまり長い時間
太陽の下にいると、肌が赤くヒリヒリしちゃう事があるよね。

それは、紫外線のせいなんだ。ヒリヒリしちゃうということは、
あまり、肌には良くない、毒になっている証拠なんだよ。


カラダはよくできているから、肌に良くない物があれば、
それを防ぐような物が、カラダの中に出来てくるんだよ。

名前をメラニンと言うんだ。

紫外線は、必要だけど、多すぎると毒だから、
紫外線が多いところに住んでいる人には、
メラニンというのが、皮膚にいっぱい出来てくるんだ。


もうわかった? このメラニンは黒い色なんだよ。


日に焼けた後、何日かすると肌が黒くなるよね。
それはメラニンが増えた証拠なんだ。


赤道に近い所に住む人は、メラニンがドンドン増えて肌の色が黒くなる。
遠いところに住んでいる人は、もっと紫外線が必要だから、
紫外線が入るのを邪魔するメラニンは、ほとんどできないから、肌の色が白い。

人間にとって、ちょうど良い紫外線を受けるように、肌の色が変わってきたんだ。


目の色も、髪の色も同じだよ。赤道に近い人は、
メラニンが増えて目の色は黒い、ちょっと離れている人は茶色、
もっと離れている人は青。髪の毛も同じだね。

赤道に近いところに住む人は、暑いよね。だから、髪の色は黒くて、
さらに、風通しがいいように、チリチリの髪の毛が多いんだね。


そして、生まれてくる子供は、お父さんやお母さんに似ているよね。
君も、お父さん、お母さんに似ているところ多いよね(^^)
これを、遺伝と言うんだ。


だから長い時間をかけて、進化しながら、
それが子供に”遺伝”されて伝わってきたんだね。
今は、飛行機、船、車、電車などがあるから、
色んな所に、色んな人が住んでいるけどね。


そうそう、なぜ黒人の人も手のひらと、足の裏は白いかっていうと、
君も同じだよ。手は軽く握っていることがおおいし、
足の裏は地面についている事が多いよね。

夏に、海やプールにいっぱいいっても、足の裏や、
手のひらはなかなか日焼けしないでしょ?
必要が無いから、メラニンが増えなくてあまり黒くはならないんだね。


最後に、一番大事な話をするね。
色が違うのは、今話したように、それぞれの場所で、
一番良いように進化をしてきたからなんだ。
とても素晴らしい進化が子供に伝わって来たんだよ。

だから、肌や、髪の色で、
「この色の人は凄い」「この色は良くない」なんて事は、絶対に無いからね。
みんな、それぞれの場所で、一番良い進化をした証拠なんだから。






追記2:

女の子の質問も、「YAHOO 知恵袋」で調べてみました。以下です。



■魚の種類でどうして赤身(まぐろ)だったり白身(鯛)だったりと違うのですか?

◆赤身を持つ魚は回遊魚です。常に泳いでいなければなりません。
一方、白身の魚は磯や浜等に住み付いている魚です。
これらは、筋肉の質が違う為に身の色が違うのです。

   
 
   

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