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2011年6月21日 (火)

人生ゲーム[2001~2002]

2000年12月20日、2回目の世界一周旅行を終えた晩、直後に入院生活がはじまった。大晦日と正月は実家の静岡県掛川市へ帰り、子供の頃から馴染みある神社へ歩き、除夜の鐘を突き、参拝をした。



2001年、正月の三ケ日が明け、大阪に戻る。
数日後、退院した時は恥ずかしくもプータロー。時間のあった僕は、青春切符を使い、はじめての四国へ足を運んだ。道中、讃岐うどんを食べたりしながら、入院中に読んだ坂本龍馬の本に感化を受けてか、高知は土佐の桂ヶ浜まで行く。その昔、彼らの文明開化の行動があったからこそ今の日本があるんだなァ。砂浜で黄昏つつ、龍馬と同じ目線で遠くアメリカを見る。

春先からは、世界的規模のテーマパークが動く瞬間を体験したい、という想いで、USJのオープニングスタッフで働くことになった。
バーテン希望だったがアウト。アイルランドパブレストランの「フィネガンズ」のキッチンで働く。店内では、アイリッシュの生演奏をしていた。
USJのスタッフ特典として、いくつかの条件がありつつも、園内で遊びたい放題ってのがあった。ここに勤めてる間に、計にして3回とおりはまわった。楽しい職場だった。



この頃から、いつの日かライブができる最高な自分の店をつくるぞ、と本格的に決意し行動に移っていた。

「日本全国ライブバー巡り」と銘打って、仕事の休みを合間見ては、噂に聞く全国の店をまわっていこうとした。
店に行って何をしたかといえば、カウンターに座り、立地条件、音響設備、内装などを考察したり、酒を飲みマスターと話を交わしただけのこと。
ただし、ちょっと変わっていたのは、なぜこういう店をしようと思ったのか?どうやって立ち上げたのか?どういうふうにミュージシャンとつながりを作っていったのか?などのあらかじめ用意しておいた質問をしてまわった。
石川県出身のミュージシャンから紹介をうけて行った金沢市の「メロメロポッチ」では、この店のつながりからピアノ弾き語りのシンガーソングライター、タテタカコさんとの交流がはじまったり、長野の「ブルージーンズ」では、全国の隠れた伝説的なミュージシャン達が所属する音楽事務所「日本晴レコード」の存在を教えてもらった。
各店を巡った出来事やマスターとの会話をまとめた一冊のノートは、たまに読み返してはその当時の気持ちを思い起こすことのできるバイブルでもある。
ちなみに、当時有名だった関西圏のライブバー、ライブハウスへは、ほとんどその頃に足跡をつけていったと思う。

5月のGWには、九州は阿蘇山「虹の岬まつり」に行った。
「フジロック」で知られる大規模な野外フェスも、もともとはこのような「まつり」を原型にはじまったと思う。
だだっ広い阿蘇の山中の高原地帯に、北海道、東京、関西、九州全土のあらゆるところから、車、バイクに乗り、ヒッチハイクをし、現代を生きるヒッピーのごとく、いろんな人たちが集まってくる。夜はあちこちにいくつもの焚き火を囲み、知らない人同士が集まってはギターで歌い、ジャンベを叩き、酒を交わし、友達になる。
山奥でとってきた竹でライブステージをつくり、GWの6日間にわたり、天然野外のライブも繰り広げられていた。
このまつりが縁で、大阪のロックバンド「LOVEDLOVED」や、東京のミュージシャンたちと出会いがあり、その後、僕のつながりの中にバンドマンたちの交流が広がっていった。



直感で動く、という趣がある。
ある日、なんとなしに一観客として、京都の老舗ライブハウス「拾徳」の飛び入りライブに行きたくなった。USJの仕事を夕方に終えると、家にも寄らず楽器も持たずに拾徳へ行った。
ギターの弾き語りで、ヒップホップとレゲエを唄う斬新なシンガーがいた。名は「パンチ」といった。はじめて見る彼のリズムに魅せられ、膝に手をやりリズムを刻みながら、彼のステージを見ていた。
最初は客で来ていたつもりが、ステージで歌いたい気持ちが騒ぎだす。楽器を持っていなかった僕は、手持ちのかばんにマイクをあて、リバーブを聞かせてもらい、持ち歌を唄った。
僕の歌舞伎者的なステージを見た彼も興味をしめし、その日の夜、二人は意気投合し、現在まで親友として付き合いが続いている。

パンチとユニットを組んだ。
単純に、彼のバックで僕がジャンベを叩き、コーラスをする。たまにソロで自分の持ち歌を唄う。どんな時にも熱い夜に変えてやろう、という意味合いから、ユニット名は「熱帯夜」と名前をつけた。
仕事のOFFの日は、京都にある彼の部屋を改装したパンチスタジオに通い、楽曲の練習をした。



妹から紹介をうけた西九条にあるBAR「ソフトマシン」で、「熱帯夜」初のデビュー&ワンマンライブの日取りを決め、手書きながら気持ちのこもったチラシをつくり、職場の人たちなどに宣伝をし、その日を楽しみに待っていた2002年の春・・・、事故は起こった。

USJと前年の秋頃からはじめた居酒屋のかけもち、そしてプライベートのあれこれ。睡眠時間を削り、せわしなく働き、遊んでいた。
USJにて、いつもの厨房の片づけをしていたときのことだ。180℃にもたっしたフライヤーの油をバケツに溜め、廃油として捨てる作業がある。極度の疲れからか、一瞬気をゆるめたその時、バケツを落とし左足の膝に被り大火傷をおった。
人生2度目の2週間にわたる入院生活がはじまった。数年後、どっちの足を火傷したのか自分でもわからないほどに火傷の痕が消えたことは、自分の中の恐るべき治癒能力の発見だった。

入院中、ベッドの上で、職場の予習・復習をしたり、今後のためを考えて酒やカクテルの勉強をした。
そして、この数年の間に自分の店をもつぞ、と気持ちを込め、ノートに自分の店をどんなふうにするのかという具体的な内容を細々と書き綴った。そこに書いたノートの内容が、自分の店「吟遊詩人」の原型になり、不思議な縁を引き寄せることになる。



退院後は、もっと料理に携わりたいわがままを通し、USJを辞め、居酒屋一本に仕事を切り替えた。

大火傷をしたことがきっかけか、「熱帯夜」のデビューライブをするはずだったBAR「ソフトマシン」と深い交流がはじまり、3月から月一で、僕のプロデゥース、及びブッキングライブ「LIVE 吟遊詩人」シリーズをスタートさせた。
今まで知り合ってきたミュージシャンたちに声をかけ、回毎にライブのテーマを決め、自信のかぎりのライブをつくっていった。オープニングでは、いつも一曲入魂で歌を唄い、その日のテーマを口上した。
2002年も暮れに近づいたきた頃、マスターから耳寄りな話がくる。

港区の弁天町に「加藤汽船ビル」という今は廃業している旧フェリーターミナルがあった。
ビル内で当時活気だっていた、酒屋、喫茶店、うどん屋、ゲームセンター、おみやげ屋などの跡地を、この時代の先端をゆくクリエイターをはじめ、工房や写真スタジオ、個人の店に改装し、魅惑溢れる隠れ家のスポットとして賑わいをみせていた。
そのビル内で、バーをしていた店主が、事情あって一年限定の代理店長を募集しているという。内装、屋号等、全部好きにしてもいい好条件つきで。バーの店主はソフトマシンの常連客でもあった。
すでに、ほかに借りようとしている人が二人いた。そのうちの一人は、この数日で答えを出してくるらしい。早い者勝ちということである。
僕は3日で決断をだした。それからは、居酒屋の仕事が終わると、十三から加藤汽船ビルまで自転車を漕ぎ、とりあえずは、そうじ、かたづけを続けた。作業が終わると折りたたみのチェアーベッドに体を休め、天井を眺めイメージを沸かせ睡眠をとった。

大晦日をもって居酒屋の仕事を辞めた。
その晩の職場の忘年会の時、うっかり公園に止めた自転車のカゴに忘れていった大事な寝袋をどこぞの誰かに盗られてしまったが、極寒の冬、一人のホームレスのおっちゃんの命を救ったと思い込み年を越す。

運命は、時計の歯車のごとく決められた軸をまわるよう、ぐるぐるぐるぐると動きはじめていた・・・。        


 

                    To Be Continued...
2010.7.31






■人生ゲーム[1994-1997]
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■人生ゲーム [1997-2000]
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■人生ゲーム [2000]
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■人生ゲーム番外編 ~repetition one's youth~
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2009年7月 9日 (木)

人生ゲーム番外編 ~repetition one's youth~

先月の半ばに誕生日を迎えてから、もうすぐ早二ヶ月がたとうとしている。
現に30代の自分だが、気がつけば20代の頃と同じことを繰り返しているようだ。

大まかにプロフィールっぽく20代のことを記せば、
22才、今はなき伝説のアコースティックライブハウス「レッドライオン」で働かせてもらう。
23才、第二回目の世界旅行に出る。
23才からUSJのオープニングスタッフ、続いて居酒屋「道場」で働く。
24才、十三の自分の部屋をBAR風に改装し、友人・知人を招待する。
同じく24才、西九条のバー「SOFT MACHINE」にて、月一でライブブッキングを行う。

その先に、25才、港区弁天加藤汽船ビルにて、自分の店、ライブバー「吟遊詩人」を開くことになるのだが、上記5項目と近いことが、自然の成り行きか、夢の追人か、ここ数ヶ月の間に急速に繰り返されていることに気付く。
もちろん、それぞれはここ数年間の経験のもと、我ながらに確実にひとまわりし動いていると思いたい。

・・・昨年の夏に自分の店を閉めたあと、ホームグラウンドを梅田の「RAINDOGS」に移し、ローペースながらにライブブッキングをさせてもらっている。
P.S.次回の吟遊詩人企画(http://sound.jp/soundbar/)は、8月6日(木)@HEAVEN'S DOOR

予定は遅くなったが、今、来年の春頃出発の第三回目の世界旅行に向けて、だいぶ寄り道をしながらも向かっている。

先月の6月6日、自分の家の1階を改装し、「抱吟」と名付け、エセバー、エセゲストハウスを、ある意味部屋をオープンさせた。

先々月、出稼ぎ兼人生出張の約5ヶ月間の名古屋滞在から大阪へ戻り、5月末より就いた仕事は、コンサートスタッフだ。主に、大きなハコで行われるメジャーアーティストのライブの設営、人員整理等をするのだが、予想以上に貴重な時間を送らせてもらっている。そのへんのことはまた別の章として追記したい。

そして、来週火曜からは、また新しい世界がひろがる。「中華料理」の厨房スタッフだ。中華との出会いは、名古屋だった。なぜに中華か?これもまた別の章で。

20代にしてきたことと今していること、どちらにも同じことが言えるのは、昔から変わらない同じ夢を追いかけていること。イメージを現実に近づけようとしていること。
なんだか最近は、20代前半の頃の気持ちに戻ったようにも思う。
弱冠ネックなのが、なかなか精神年齢が成長しないこと。嫁さんに迷惑をかけてばかりいること。わがままで超自己中な、とほほでおかしな大人な子供。

最後に、今日読み終えた「アルケミスト~夢を旅した少年~(パウロ・コエーリョ/著)」という小説から、この本に繰り返し出てくるセリフを2つ。いくつになっても、素直にそれが信じれる人でいたい。
「前兆に従うこと」
「何かを強く望めば宇宙のすべてが協力して実現するように手助けしてくれる」

2008年2月 8日 (金)

人生ゲーム [2000]

 ・・・ずっと続けていきたかった仕事を辞めてしまった僕は、アリさんマークの引越社の頃に仲の良かった先輩に電話をかける。明石家さんまの大ファンで生まれも育ちもコテコテな大阪人、普通に「岡崎さん」と呼んでいた。彼も僕と同じく、自分のしていた仕事が大好きでずっと続けていきたかった人だが、事情あって3ヶ月前に辞めてしまったという。そんな同じ境遇に立った二人が久しぶりに会うと話は弾み、一緒に旅行に出かけることになった。
 おもしろい組み合わせだ。僕は旅行好きでしょっちゅういろんなところへ行ってきた。逆に岡崎さんは引越の仕事と修学旅行以外では一切大阪を出たことがない。もちろん海外なんて未経験だ。もともとアリさん時代からツッコミの岡崎さんにボケの僕といった、職場やお客さんの前でもかなり目立った珍コンビでもあり、完全に対称的な男の二人旅は本当に楽しかった。当初はアジアだけの予定であったが、旅行をしながらルートはどんどんと変わる。岡崎さんとは50日間インドのデリーまで一緒だった。アフリカより先は一人旅になり、その頃には第二回目の「100日間世界一周」に気持ちが向かっていた。

 全体的なルートが第一回目と似ていても、見るもの、会う人、自分の3年間につちかった経験や精神、さらには音楽が違う。それに初めてのアフリカを加え、アメリカでは3年前に知らずして大阪においてその存在を知ったブルースを求め、シカゴ、メンフィス、ニューオリンズをまわる。
 旅の特徴で違うところは、前半は二人旅。世界地図一枚だったのが世界地図帳一冊に変わり、楽器にジャンベが加わったところにある。
 当時の旅行風景をシカゴから親へ送った一通の手紙がある。


「シカゴにて 2000.11.28」

 ハードな旅をしている。昨晩会ったタイ人に「私の世界一周は100日間だ。」と話すと、「It's very short!」と言われた。けどいい。今は誇りに思えている。普通に考えても100日間の世界一周はとても短い。けれど、自分のその期間内に納められた内容はすごく濃い。なぜなら1日1日がとても重要であり、欲が深いこともある。そして、3年前に成功させた世界旅行と重ねているところが大きなポイントだ。一回目で足りなかった部分を二回目で充分に補い合わせることによって、僕の中での「100日間世界一周」の物語を完成させようとしている。

 まず大阪より上海まで海を船で渡り、中国からインドのデリーまでずーっと陸路で旅してきた。景色や人々はものすごいスピードで変わってゆく。巨大ビルが立ち並び、ちょっと冷めた中国人が生活する大都会から、黄色に輝く岩山、無数に地面から湧き出たような緑山、雲に手が届きそうな高原へと行けば緑という緑はなくなっている。中国の奥へ行けば行くほど、人々の性格は温かくなっていった。

 忘れようとも忘れられない成都からチベットのラサにかけて旅は、5泊6日間ずっと同じバスに乗り続けの大移動で、標高3200メートルの町まで来た。次に5000メートル級ののヒマラヤ山脈をジープで越え、丸1日後には1500メートル地点に居る。朝目覚めると、日本でもよく見るような田園風景が広がっている。

 チベットからネパールへ国境を抜けると、今度は白くそびえるヒマラヤの麓の町だ。牛やあひる、犬や人とがゆっくりと生活している時間の流れの遅い町。人々の言葉から性格までも、ガラッと変わる。
 インドへと抜ければ、さらに人々の性格は濃くなり、もっとゴミゴミしてくる。一番変わったのは気温だ。毎日Tシャツでも暑くてたまらない。砂漠の上をラクダに乗って歩いたりもした。

 ロンドンへ飛んだ。世界は逆転する。暑苦しかった日々が急に寒くなった。冷たい風が吹いていた。今まで平気だった自分の着ている服装が、ここに来てから妙に恥ずかしくなった。どこに行ってもみんなおしゃれに服を着込なしているからだ。見栄えのいい新しいジャンパーを買おうと何度も思ったが、物価までもが10倍にあがっている。近隣の大都市、パリとロンドンでの人々のオーラ、性格はもちろん違う。

 ・・・とうとう未知なる無知なる西アフリカへ飛んだ。ヨーロッパで過ごした常識という常識はすべて吹き飛んだ。信じられないような出来事が何度も連続して起こる。夜はまたTシャツ一枚で過ごすことになる。中国、インドでの人々の旅行者をおとしいれるあのコミュニケーションは、この地と比べるととてもやさしく思えた。何よりもすぐにでも帰りたいと思い続けた国はここである、と言いつつも、おもしろい出来事もたくさんあった。病気にもならず争いにもまきこまれず、生きて無事健康に終わったことがホント良かった。

 西アフリカからアメリカまでの大移動がこれまた強列だ。地道にコツコツ車で陸路を移動していた西アフリカであったが、飛行機に乗れば時速800km、約20時間にして、1万5千kmもの大移動が一瞬で終わる。途中、空の上から北極圏にあたるグリーンランドを見ることができた。地面は雪で真白く、大雪の海の中をポツポツと山が島のように突き出ている。さすがにこんなところに降りる勇気はない。

 やっとたどり着いたアメリカのシカゴ。これまた寒い、寒すぎる。けれど、アフリカを発つ時に買った600円の靴までかかる茶色いコートのおかげでなんとか大丈夫だ。それでもコートの下は日本からずっと繰り返し着ているTシャツである。ずっとずっとあこがれていた本場のブルーズ(音楽)には強い衝撃を受ける。さらにロンドンでは見かけることのなかった、アメリカで今なお続いている人種差別を見た。残り1ヶ月をきった今日、一番気楽な気持ちで旅行するはずであったアメリカ大陸。しかしぜんぜん違いそうだ。

 人から見れば大変短く思える100日間の世界一周の中で巡り巡る変わりゆく日々。すさまじく感性が磨かれ、このスピード感を保つにはかなりの精心力が必要に思える。若いからこそできるんだとも思う。必ずその期間内にまわらなければならないというこの旅行の中では、大きな失敗や朝寝坊は絶対に許されない。

P.S. ちなみにガイドブックを持たずしてのこの旅行は無謀にもおかしいとも言えるほど特徴がある。だからよけいに大変だしおもしろい!?



 ・・・と、手紙は終わっているが、最終国アメリカが一番大変だったのかも知れない。帰国予定までわずか2週間をきった頃から突然体調がおかしくなってきた。随時体が熱っぽい。酒を飲んでもいないのにフラフラする。今まで軽々と背負っていた荷物が、3倍以上の重さを感じる。予定ではグランドキャニヨンを観光したかったが、結局は麓の病院に入院することになる。アフリカで何度か蚊に刺されていたのが原因で、なんとマラリアが発病していたのだ。
 本当であれば完全完治するまで、最低2週間は入院していなければならなかったのだが、どんなことがあっても100日目で大阪へ帰国するという信念があり、そのことを必死にお医者さんへ伝えた結果、わずか4日目で無理矢理のごとく退院する。いろんなハプニングを乗り越えながら、なんとか2000年9月12日より始まった旅は自分の部屋に帰着した12月20日をもって無事(?)成功をおさめる。しかし、そのままその晩には、大阪の都島病院へ入院した・・・。





                    To Be Continued...
2008.2.8

人生ゲーム [1997-2000]

 記念すべき5月15日の二十歳の誕生日を、ヒマラヤのエベレスト山脈を望みながら迎えることのできた第一回「100日間世界一周」を終えてからは、その年いっぱいを地元掛川市で新聞配達をしながら過ごしていた。世界を一周できた自分に誇りが持て、ある程度の自信をつけて帰ってきたつもりだったのだが、また夢と現実のはざまでもがき苦しみだす。このままでいいのか、いけないのか?疑問が沸く。地元にいても毎日の生活にあまり刺激がない。ましてや親元にいると甘えがでてしまい、ダラダラ星人になってしまいそうだった。すごく鬱になってきた。

 ・・・大阪に出ることに決めた!静岡に住んでいるんだったら普通東京に行くでしょ、といろんな人から聞かれるが、僕にとっては日本の中のアジアと呼ばれる大阪のほうが、魅力的で刺激がありそうに思えたからだ。



 1998年、普通に大阪に出たわけではない。あいかわらずにして、今度はHONDAの50ccの原付バイク「DAX」に乗り、気晴らし旅行も兼ねて鹿児島にある屋久島へ寄っていった。
 神戸まではDAXで走り、神戸から大分まではフェリーに乗り、そこから屋久島までは九州の中心でもある阿蘇山を越えていく、といったコースだ。まだ2月はじめだったから、夜テントで寝ていると九州とはいえすごく寒かったのはまったくの予想外であった。

 しかし、屋久島はいい思い出だ。島で一番標高がある宮之浦岳を縦走して、縄文杉まで歩いて行こうとした。一日目、朝方からポツポツとアラレが降ってくる。宮之浦岳登頂時にはあたり一面真っ白な銀世界。ちなみに僕はまったく登山装備をしていない。そのまま無理して縄文杉まで下れば、ヘタしたら遭難して死んでしまうと本気で感じたため仕方なく下山した。
 二日目、山の反対側にある縄文杉ルートから登っていった。前日とは180度違う天候だった。雲一つなく、風一吹きない、すごく落ち着いたポカポカした日和だった。縄文杉に手をあてると、これから大阪へ行く自分の体内に樹齢七千二百年のパワーが入ってきたような気がした。川を流れる青く透きとおった水の美しさと、登山道にはゴミ一つ落ちていなかった環境はとても素晴らしかった。



 大阪の最初、平野区で新聞奨学生をしながら専門学校へ通うことになるが、半年で学校へ行かなくなってしまう。住吉区にある長居公園に出会ったからだ。そこには、噴水広場のまわりにある街灯をまるでスポットライトのように浴び、毎夜のごとく現れる孤高のシンガーたちが居た。
 当時僕はジャンベというパーカッションを叩きはじめていて、夜な夜な愛車DAXに乗って長居公園に通っては、初めて会う人たちとセッションをする。誰にも自分の自己紹介をしていなかったので、長居に集う人たちからはまったくの違和感なくその楽器の名で、ジャンベ、ジャンベと呼ばれていた。それがしだいに短縮された結果、「ジャン(JAN)」という、半永久的なニックネームがついた。

 長居公園の帰り道に必ず寄る店があった。小さなガレージを改造して作り上げた、「サンセットブルージー」という名のバーだ。ここのマスターに強いあこがれをもち、バー、そしてマスターという存在に深く興味を抱いた。マスターからは「Blues」という、僕にとっては新しい音楽の世界を学んだ。「トム・ウェイツ」に触れたのもこの店だった。

 長居公園との出会いをきっかけに、しばらく眠りかけていたミュージシャンへの夢が復活する。新聞奨学生は一年で辞め、今度は住吉区の我孫子に移ると「アリさんマークの引越社」で働きながら長居公園へ通った。



 好きなライブハウスがあった。当時十三にあった「レッドライオン」という店で、ロックをのぞく様々なジャンルアコースティックのライブを展開していた。
 2000年の1月より、十三へ引越しレッドライオンで働くことになる。大阪に出てきた頃からあちこちのライブ会場に足を運んでいたことや、ここでのライブ体験でさらに自分の人生に革新が起きる。今までは自分の唄をみんなに聞いてほしいという熱い想いがあったのだが、ふと気がつくとそれは逆転し、様々な魅力ある音楽を多くの人に体験してもらいたい、と変わっていた。同時に、いつか故郷にそんな店を出したい、と新しい夢が生まれた。
 しばらくこの店でいろいろと勉強したいと思っていたが、同年8月に不景気のあおりを受けて閉店してしまった。

 長居時代、21才の時、触れると火傷をしてしまいそうな若き日の自分。そんな頃に書いた「人生ゲーム」という唄は、当時、数え切れないくらいにうたっては、時には人にメッセージを伝え、常に自分に言い聞かせ、奮い立たせていた。この自伝的エッセイのタイトルにもなっている人生ゲームをここに載せておきたい。


「人生ゲーム」

人生はゲームと考えていい 俺はそう思う
いろんな本や人達の言ってること 同じことの本当のこと
そいつを確かめたい 自らの行動を持って
そいつを信じたい 自らが体験することによって

心に思い描いたことは 必ず実現する
波長の合ったもの同志が 互いに引きつき合う

遠い遠い先の未来に 一つのゴールをつくりあげる
でっかけりゃでっかいほどやりがいがあるし おもしろいたまらない最高だ
夢を果たす素晴らしいエンディングを手にした
それで終わり? そんなこたぁないよ

一つのゴールが終わったのなら 次のゴールをつくりあげよう
もっとでっかくもっと上回る むずかしくおもしろいものを

途中いろんな障害や 問題がおとずれてくる
敵だと思ってくれてい どんどん撃破していくんだ

たまには休憩も必要だ だけど心が休まったのならふたたび再開するんだ
絶対クリアーするんだリセットなんか押すな やられたっていいさコンティニューしよう

自分が負けを認めた瞬間に もう君はそのゲームをやらなくなる
何年何十年かかろうがいい 長けりゃそれくらいでっかいゲームなんだろう

「こんなことできるのか? 本当にクリアーできるのか?」
それくらいにでっかいゲームに チャレンジするんだ
「いくらそんなこと言われても できないことはできやしないさ。」
だったら本当にできるかできないか ゲームしてみようぜ

心の中にすっごいゲームを築きあげ でっかくおもしろい人生ゲームを楽しんでいくんだ
楽しんでく 夢を楽しむ ゲームを楽しむ 人生を楽しむんだ

挑戦を続けようぜ FOR DREAMER & CHARENGER




                    To Be Continued...

2008.2.6

人生ゲーム [1994-1997]

 小学生の頃は絵を描くことが好きだった。将来は画家になりたいと夢見る、わりとおとなしい少年だった。
 しかし、高校生の頃から突然、自分のことが嫌でたまらなくなり、どうにかして自分を変えたいという強い気持ちが生まれてきた。自分のことを知らない遠くの町へ行けば、また一から新しい自分を出せるだろう・・・。それが旅、冒険に対する欲望のきっかけだ。マウンテンバイクを買った。遠くの町へ行くことが好きになった。空手部に所属していたので、冬休みには山篭りなんてまねごともした。



 1995年、高校二年の春休み、生まれて初めて海外旅行へ行った。地元、静岡県掛川市の学生のみんなと、姉妹都市であるアメリカはオレゴン州へホームステイに。感動の連続だった。幾度となく胸の中が爆発した。わずか二週間のアメリカであったが、確実に世界に視野が拡がり、大きな夢をもらってきた。

 ある日、ホームステイ先の奥さんの親友のバースデイパーティーで、たくさんの人を前に、当時大好きだった米米クラブの「浪漫飛行」を歌ったところ、大勢の人に褒めたたえられ、大きな拍手と歓声の波で囲まれた。若気のいたりか、それがアメリカのノリとも知らずに、いつか世界のステージの上で自分のメッセージを唄うことで世界をほんの少しでも良くできたらいいな・・・。なんて、漠然と夢見てしまった。きっかけなんてそんなもんだ。

 高校三年になってからはいろいろとやった。夏休みに、静岡から北海道までヒッチハイクで旅行してきたり、科学セミナー、英語セミナーといった高校生の合宿に参加した。冬休みには、静岡県内の若者たち約400人が同じ船に乗って香港まで行くという、「青年の船」というものに参加した。春には高校卒業旅行と題して、自転車にテント、寝袋、自炊道具を積んで、伊豆半島を10日間かけてまわった。



 高校を卒業すると進学も就職もせずに、派遣社員として地元のNEC工場に勤める。半年くらいたった頃、急に自転車で日本一周をしたくなる。東京へ出るといった仮の口実で仕事を辞め、とりあえず自転車に乗って、沖縄は石垣島まで走った。
 結局この旅は、ぜんぜん日本一周には至らなかったが、日本横断という経路は残すことができた。静岡県にある太平洋側の浜岡砂丘の砂を写真のフィルムケースに積め、日本海側の鳥取砂丘の上に砂をこぼしてきたのだ。その瞬間、なんの理由もなしに胸の芯を中心に体中が熱くなり、自然と僕は笑っていた・・・。
 沖縄からはフェリーに乗って、一旦静岡の自家に戻った。したいことができたからだ。



 1996年12月21日より年明けの1月6日にかけて、ただ果てのない海の上を16日間、帆船「海星」に乗って、横浜港から再度沖縄は宮古島まで向かった。わずか全長50メートルの帆船にたった二十数人の乗船員を乗せた航海。はじめての冒険という感覚を味わった。海の表情がとても印象深い。静けさ、荒立ち、喜び、悲しみ、怒り、放心・・・、海はまるで人のように感情がある。太陽と風がさらに無限の芸術をつくりだす。

 宮古島はとても特徴があっておもしろい。山らしい山はなく、川という川がひとつも見当たらない。合宿で仮免から先の自動車免許を取得し、鳶職とコンビ二で働きながら、三ヶ月間滞在することになる。宮古島滞在時には、途中だった日本一周自転車旅行が、世界一周したい気持ちに変わり、近くの楽器屋で小さなボンゴとハーモニカを買い、実家からギターを送ってもらうと音楽の練習をした。はじめてギターで歌った曲は、ブルーハーツの「電光石火」だった・・・。



 19才、1997年4月24日から8月1日にかけて、いわゆるバックパッカーのスタイルで、初めての世界旅行一人旅、第一回目の「100日間世界一周」へでかける。
 ルートは、中国、香港、ネパール、インド、イタリア、スイス、フランス、イギリス、ジャマイカ、キューバ、メキシコ、アメリカだ。まだ当時の自分はあまり世界のことも知らなかったし、十代の若者たちが知っていそうな、知名度の高い国々を通ったに過ぎない。しかし、僕の旅の特徴は、海外情報の載った本は一切持たず、ただ世界地図一枚を片手に旅を進めていく。その時、その場所、そこで出会った人々に情報を求め、もちろん泊まる宿も移動手段もその時々で、次の未知なる世界へ足を運んでいく。ギターを持って世界の路上をステージに、技術も乏しい素人ながら、唄をうたいながら旅をしていく・・・。当時の旅行風景を詩にまとめてあるのでここに記載しておく。


「100 DAYS AROUND THE WORLD STORY」

幻の雲 山ビコは返って来ない ヒマラヤを目の前に僕は唄う
水に浮かぶゴミの上 カラスが遊ぶ ガンジスの川で僕は唄う
今にも倒れそうなピサの斜塔 人々に囲まれ僕は唄う
 
あらゆるところで唄をうたった 音楽は国境を越えた
言葉の違いは関係ない ただガムシャラに日本語を発するのみ
国境も壁も何もない 声は風となって空を駆ける

3泊4日の列車大移動 3000キロはカルカッタからボンベイ 赤い大地
見せつけられた拳銃とポケットのナイフ 信頼・金・友情に激怒の叫び
初めての海外旅行は2年前 世界を一周し訪れたシェーバーとの再会

少年の頃の視野は 近所にある公園一周だった
まったくの無知のまま ただ世界地図を一枚持って
ただギターを一本背負って ただ希望を抱いて

月明かりの下で一人リズムに酔う おじいちゃんを見たジャマイカの夜
若者が集う地下バーで 友達という言葉を教えられたロンドンでのこと
小道にトラックが止まり草陰から人が集まる ほのぼのとしたキューバの日常

西へ向かった僕は 東の国から帰ってきた
西から東へと長い長い道のり その距離には限界がある
地球は丸いからだ そいつを確かめるために旅をした

そしてまだ 旅は始まったばかりだ




                    To Be Continued...
2008.2.5